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早川兼備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
早川兼備
時代 江戸時代後期
生誕 宝暦12年11月16日1762年12月30日
死没 文政5年4月5日1822年5月25日
改名 辰五郎(幼名)→大四郎(初名) →湊
→茂十郎 →助次 →兼備
別名 渡殿(渡理)(わたり)→安積(あつみ)(通称)
戒名 穏海院殿天叟泰心居士
墓所 鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地
幕府 江戸幕府
主君 島津重豪島津斉宣島津斉興
薩摩藩
氏族 早川氏
父母 父:岡本勝寛
養父:早川兼親、養母:葉屋
兄弟 美津、寿恵
正室:整(早川兼親の娘)
側室:壽美
兼典、新之助(二男)[注釈 1]、澤野(長女)、
浦橋((二女)島津斉宣側室)、
以下、側室の子:和十郎、兼富
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早川 兼備(はやかわ かねみつ)は、江戸時代後期の薩摩藩士。早川兼典早川環[1]の父。

早川兼彜早川五郎兵衛[2] [3]の祖父にあたる。

生涯

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※月日は旧暦

  • 宝暦12年(1762年)11月16日、日向国高鍋藩藩主秋月種茂の老職岡本勝寛(八郎左衛門)の末男として日向高鍋で生まれる。
  • 天明3年(1783年)12月7日、早川兼親の養子となる。
  • 文化10年(1813年)4月28日、家格代々小番。
  • 文化10年(1813年)5月9日、早川兼親が隠居し、家督を相続する。渡殿と改名。
  • 文政2年(1819年)9月24日、大隅国始羅郡帖佐郷地頭を拝命。
  • 文政3年(1820年)8月15日、養父酔好(兼親(かねちか)、通称:九郎右衛門)を伴い、江戸から国許へ。
  • 文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪[注釈 2]に着く。
  • 文政5年(1822年)4月5日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪にて死去。享年61[注釈 3]

人物

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和歌・狂歌を嗜み、鎗術の免許皆伝の文武両道。

『馬目利々書』を所持。

奉職歴

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※月日は旧暦

  • 天明4年(1784年)10月28日、表御小姓。
  • 天明4年(1784年)12月15日、御近習番。
  • 寛政5年(1793年)10月20日、重豪公御附御小納戸見習。
  • 寛政11年(1799年)3月25日、重豪公御附御小納戸頭取、兼、御用取次見習。
  • 享和3年(1803年)9月28日、御小納戸頭取、兼、斉興公御抱守勤。
  • 文化4年(1807年)4月16日、御小納戸頭取御小納戸勤。
  • 文化8年(1811年)2月28日、御小納戸頭取、兼、江戸御留守居見習。
  • 文化10年(1813年)4月28日、江戸御留守居。
  • 文政2年(1819年)5月9日、御勝手方御用人。
  • 文政2年(1819年)9月24日、帖佐郷地頭職。
  • 文政2年(1819年)から同5年(1822年)の大隅国始羅郡帖佐郷地頭[4]

出典

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注釈

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  1. ^ 山田為種の養子山田為範、山田為正(山田壮右衛門)の父
  2. ^ 場所は、『鹿児島御城下明細図:索引』塩満郁夫編によると、 No1602 早川安積 外堀の東、竪馬場の西、立野馬場の南と記載されている。(なお、フリガナに「ハヤカワアサカ」とあるが、正しくは、「ハヤカワアヅミ」である。)
  3. ^ 鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地内に墓石がある。