早川兼備
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 宝暦12年11月16日(1762年12月30日) |
死没 | 文政5年4月5日(1822年5月25日) |
改名 |
辰五郎(幼名)→大四郎(初名) →湊 →茂十郎 →助次 →兼備 |
別名 | 渡殿(渡理)(わたり)→安積(あつみ)(通称) |
戒名 | 穏海院殿天叟泰心居士 |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 島津重豪、島津斉宣、島津斉興 |
藩 | 薩摩藩士 |
氏族 | 早川氏 |
父母 |
父:岡本勝寛 養父:早川兼親、養母:葉屋 |
兄弟 | 美津、寿恵 |
妻 |
正室:整(早川兼親の娘) 側室:壽美 |
子 |
兼典、新之助(二男)[注釈 1]、澤野(長女)、 浦橋((二女)島津斉宣側室)、 以下、側室の子:和十郎、兼富 |
早川 兼備(はやかわ かねみつ)は、江戸時代後期の薩摩藩士。早川兼典(早川環)[1]の父。
生涯
[編集]※月日は旧暦
- 宝暦12年(1762年)11月16日、日向国高鍋藩藩主秋月種茂の老職岡本勝寛(八郎左衛門)の末男として日向高鍋で生まれる。
- 天明3年(1783年)12月7日、早川兼親の養子となる。
- 文化10年(1813年)4月28日、家格代々小番。
- 文化10年(1813年)5月9日、早川兼親が隠居し、家督を相続する。渡殿と改名。
- 文政2年(1819年)9月24日、大隅国始羅郡帖佐郷地頭を拝命。
- 文政3年(1820年)8月15日、養父酔好(兼親(かねちか)、通称:九郎右衛門)を伴い、江戸から国許へ。
- 文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪[注釈 2]に着く。
- 文政5年(1822年)4月5日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪にて死去。享年61[注釈 3]。
人物
[編集]和歌・狂歌を嗜み、鎗術の免許皆伝の文武両道。
『馬目利々書』を所持。
奉職歴
[編集]※月日は旧暦
- 天明4年(1784年)10月28日、表御小姓。
- 天明4年(1784年)12月15日、御近習番。
- 寛政5年(1793年)10月20日、重豪公御附御小納戸見習。
- 寛政11年(1799年)3月25日、重豪公御附御小納戸頭取、兼、御用取次見習。
- 享和3年(1803年)9月28日、御小納戸頭取、兼、斉興公御抱守勤。
- 文化4年(1807年)4月16日、御小納戸頭取御小納戸勤。
- 文化8年(1811年)2月28日、御小納戸頭取、兼、江戸御留守居見習。
- 文化10年(1813年)4月28日、江戸御留守居。
- 文政2年(1819年)5月9日、御勝手方御用人。
- 文政2年(1819年)9月24日、帖佐郷地頭職。
- 文政2年(1819年)から同5年(1822年)の大隅国始羅郡帖佐郷地頭[4]
出典
[編集]- ^ 『仰望節録(ぎょうぼうせつろく)』天保3年(1832)早川兼典「仰望節録序」、天保3年曾槃自序。
- ^ 在琉英仏人ノ動静報告 申五月六日 早川五郎兵衛 将曹様
- ^ 巳正月九日 早川五郎兵衛 主水様(赤松則甫)
- ^ 『鹿児島県姓氏家系大辞典』(角川日本姓氏歴史人物大辞典)の711ページ 早川安積