早川省義
早川 省義 はやかわ あきよし | |
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生誕 | 1852年8月21日 |
死没 | 1903年12月22日(51歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1872年 - 1903年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
早川 省義(はやかわ あきよし、1852年8月21日(嘉永5年7月7日) - 1903年(明治36年)12月22日)は、日本陸軍の軍人。正五位。最終階級は陸軍少将。正五位。旧名・高松次郎[1]。
経歴
[編集]本籍静岡県。明治2年(1869年)9月より沼津兵学校で資業生(第4期)として学ぶ[2]。明治5年(1872年)5月、兵学校廃校に伴い東京に移り、陸軍伍長となり陸軍教導団に編入された[3]。1873年(明治6年)12月24日、陸軍少尉に任官[4]の後、1874年(明治7年)2月、陸軍省参謀局第六(測量)課課員となる。1877年(明治10年)5月18日に陸軍中尉を任ぜられ[5]、1880年(明治13年)には全国測量の開始に際し、千葉県下を担当する第2班班長を務めるなど測量業務に従事する。
1882年(明治15年)4月18日に工兵大尉に昇進後、軍の測量技師養成のための施設設置及び教育方法についての検討における中心的役割を果たし、『数理提要』、『大地測量学講本』、『地形学』、『初級最小方数法』、『標高平面幾何学』などの教科書を編纂するとともに、陸地測量部修技所設立に尽力した。
1884年(明治17年)9月、参謀本部測量局地図課長心得となる。参謀本部測量局が陸地測量部となった1888年(明治21年)5月14日には同製図科長心得として職務上は留任となり、1889年(明治22年)9月21日、工兵少佐に昇進し、同日付けで陸地測量部製図科長に正式就任[6]。以後長らく陸地測量部で地図作成業務に従事し、1895年(明治28年)1月29日には工兵中佐に[7]、1899年(明治32年)12月25日には工兵大佐に昇進した[8]。
1903年12月22日に死去し、同日、陸軍少将に進み予備被仰付となった[9]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 1880年(明治10年)2月7日 - 従七位[10]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 従六位[11]
- 1895年(明治28年)3月28日 - 正六位[12]
- 1900年(明治33年)2月10日 - 従五位[13]
- 1903年(明治36年)12月22日 - 正五位[9]
- 勲章等
- 1885年(明治18年)4月7日 - 勲五等双光旭日章[14]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[15]
- 1893年(明治26年)5月26日 - 勲四等瑞宝章[16]
- 1895年(明治28年)
- 10月31日 - 勲三等旭日中綬章[17]
- 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[18]
脚注
[編集]- ^ 『旧幕臣の明治維新』38頁。
- ^ 『沼津兵学校の研究』323頁。
- ^ 同上、318 - 323頁。
- ^ 『太政官日誌』明治7年第3号
- ^ 「5月18日 被任中尉 少尉早川省義」 アジア歴史資料センター Ref.C09082486800 、請書 明治10年4月10日~10年9月30日(防衛省防衛研究所)
- ^ 『官報』第1872号、明治22年9月24日。
- ^ 『官報』第3475号、明治28年2月1日。
- ^ 『官報』第4947号、明治32年12月26日。
- ^ a b 『官報』第6144号、明治36年12月23日。
- ^ 「明治13年 陸軍省日誌 春 従1月至3月(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C08010485700
- ^ 『官報』第2551号、明治25年1月4日。
- ^ 『官報』第3521号、明治28年3月29日。
- ^ 『官報』第4981号、明治33年2月12日。
- ^ 『官報』第534号、明治18年4月16日。
- ^ 『官報』第1938号、明治22年12月12日。
- ^ 『官報』第2974号、明治26年5月31日。
- ^ 『官報』第3704号、明治28年11月1日。
- ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 樋口雄彦『旧幕臣の明治維新 - 沼津兵学校とその群像』吉川弘文館、2005年。ISBN 4-642-05601-7
- 樋口雄彦『沼津兵学校の研究』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4-642-03780-8