星野応韶
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星野 応韶(ほしの まさつぐ、1890年(明治23年)10月14日 - 1965年(昭和40年)1月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
経歴
[編集]1890年(明治23年)10月14日、京都府[1]京都市下京区で、星野俊松、千賀夫妻の長男として生まれる[2][3]。1910年(明治43年)旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)を卒業し、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校に入学[4]。1913年(大正2年)に海軍兵学校(41期)を卒業し、海軍少尉候補生となり、1914年(大正3年)12月1日、海軍少尉に任官[2]。その後、海軍潜水学校教官、第38潜水艦(呂号第20潜水艦)艦長心得、第2潜水戦隊参謀、第2艦隊副官、巡洋艦鈴谷副長、戦艦長門副長、運送艦間宮特務艦長、呉軍需部総務課長、海軍省電信課長兼軍令部課長、佐世保海軍工廠総務部長兼工員養成所長を歴任[2]。1942年(昭和17年)少将に昇任。その後、横須賀人事部長兼横須賀鎮守府人事長、第21特別根拠地隊(スラバヤ)司令官、大阪在勤武官兼船舶警戒部大阪支部長、兼大阪港湾警備隊司令などを経て、1945年(昭和20年)10月15日予備役に編入[2]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。1965年(昭和40年)1月6日逝去[6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年。