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曄道文芸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年明治17年)12月20日 - 1966年昭和41年)8月11日)は、日本法学者。専門は民法実業家学位は、法学博士[1]。元京都帝国大学教授。

人物

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明治17年(1884年)、石川県能美郡川北町で、静泉寺住職・曄道大圓の長男として生まれる[2][3]第四高等学校を経て、明治42年(1909年)、京都帝国大学法学部首席卒業[2][3][4]。曄道の卒業と同年に東京帝国大学を卒業した鳩山秀夫が、曄道が高等文官試験を受けると聞き付け、首席を取られることを恐れて、自身の高等文官試験受験を取り止めたとの逸話がある[4]

後に、京都帝国大学助教授、次いで教授を務め[5]、京大民法学の基礎を固めたが、大正9年(1920年)、京大教授を退官、実業界に入った[3]

大正13年(1924年)の第15回衆議院議員総選挙では石川1区金沢市)で政友本党から立候補し、憲政会永井柳太郎と争った[6]。曄道は落選したが、全国の護憲三派の候補者から選挙応援の要請を受けていた永井は、曄道という強力な対抗馬の出現を受けて、高橋是清の応援演説を1度行った以外地元選挙区を離れることができず、護憲三派に大打撃を与えたという[4]

実業界においては、愛国生命保険社長全国生命保険協会会長を務めたほか、昭和電工高砂ゴムなど多くの企業で重役を歴任[3]。昭和17年(1942年)4月、金融団体統制令公布実施され、同年5月、生命保険統制会が設立されると、初代理事長に就任した[7]

戦後、公職追放となった[8]

後に石川県知事となった同郷で京都帝大出身の田谷充実書生として重用[9]西田幾多郎林屋亀次郎らと交友があり、教え子には近衛文麿末川博がいる[3]

著書

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脚注

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  1. ^ 1917年7月16日付。『官報』第1545号、大正6年9月25日。
  2. ^ a b 『帝国大学出身名鑑』テの部6-7頁
  3. ^ a b c d e 『石川県大百科事典』661頁
  4. ^ a b c 『財界の名士とはこんなもの?』142-144頁
  5. ^ 『帝国大学出身録』1029頁
  6. ^ 第15回衆議院議員選挙 石川1区 (1924/05/10)投票 | 石川1区の選挙情報 - ザ選挙
  7. ^ 『朝日経済年史 昭和17-18年版』64頁、東京日日新聞 昭和17年5月16日「首脳に適材を据え業態別に十統制会
  8. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』193頁。
  9. ^ 『石川県大百科事典』623頁

参考文献

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  • 校友調査会 編『帝国大学出身名鑑』(校友調査会、1934)
  • 北国新聞社出版局 編『石川県大百科事典』(北国新聞社、1993)
  • 湯本城川『財界の名士とはこんなもの? 第1巻』(事業と人物社、1924)
  • 原田登 編『帝国大学出身録』(帝国大学出身録編輯所、1922)
  • 朝日新聞経済部 編『朝日経済年史 昭和17-18年版』(朝日新聞社、1943)
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。