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市川竜男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有田晃之助から転送)
いちかわ たつお
市川 龍男
本名 有田 信一(ありた しんいち)
別名義 市川 市松(いちかわ いちまつ)
市川 新藏(いちかわ しんぞう)
有田 晃之助(ありた こうのすけ)
生年月日 (1911-11-05) 1911年11月5日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市浅草区花川戸(現在の東京都台東区花川戸)
身長 160.6cm
職業 俳優、元子役
ジャンル 旧劇剣劇劇映画時代劇剣戟映画サウンド版サイレント映画
活動期間 1915年 - 1963年
著名な家族 市川幡谷(実父)
主な作品
柳生二蓋笠
阿呆重
續水戸黄門
剣侠乱舞
受賞
「映画の日」永年勤続功労章(1963年)
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市川 竜男(いちかわ たつお、1911年11月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である[1][2][3][4][5]市川 龍男と表記されることもある。本名は有田 信一(ありた しんいち)[1][2][4]。旧芸名は市川 市松(いちかわ いちまつ)、市川 新藏(いちかわ しんぞう)、有田 晃之助(ありた こうのすけ)[1][2][4][5]。父・市川幡谷と共に、マキノ・プロダクションなどのサイレント映画で活躍した二枚目俳優である[3][4]

来歴・人物

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1911年(明治44年)11月5日東京府東京市浅草区花川戸(現在の東京都台東区花川戸)に、映画俳優市川幡谷(本名有田松太郎、1888年 - 没年不詳)の子として生まれる[1][2][3][4][5]。生年月日については、1910年(明治43年)11月1日の説もある[6]

1915年(大正4年)、満4歳の時に「市川 市松」を名乗り、弥生座で初舞台を踏む[1][2][3][4]。1998年(平成10年)8月25日に発行された『チャンバラ王国 極東』(ワイズ出版)によれば、満3歳となる1914年(大正3年)から子役を務めていたという旨が記されている[5]。以後、数年間舞台の修行に励み、その傍らで実父・幡谷が当時在籍していた帝国キネマ演芸製作のサイレント映画にも出演していた[5]。1928年(昭和3年)11月1日、北海道にあった函館劇場での公演を最後に舞台を退き、父が在籍していたマキノ・プロダクション御室撮影所に、芸名を「市川 新藏」と改名して入社[1][2][3][4][5]。同所の子役として活躍していたが、1929年(昭和4年)7月、芸名を「市川 龍男」を名乗り、またしても実父と共に東亜キネマ京都撮影所に移籍する[1][2][3][4][5]。1930年(昭和5年)6月5日に公開された後藤岱山監督映画『剣魔白藤幻之介』や、同年6月29日公開の堀江源太郎改め堀江大生監督映画『助太刀妻恋坂』など多数の前髪物で活躍し、特に線の細い若侍役や気の弱い若旦那役を得意とした[1][2][5]

1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村大字大籔25番地(現在の同府京都市右京区花園大藪町)、京都府京都市下京区花屋町櫛筍西入12番地と転々と住み、身長は5尺3寸(約160.6センチメートル)、体重は13貫200匁(約49.5キログラム)、趣味は日本舞踊で、羊羹が嗜好であり、好きな俳優はダグラス・フェアバンクス(1883年 - 1939年)である旨が記されている[4]

1931年(昭和6年)、実父と共に馘首され、東亜京都を退社[1][2]。同年、芸名を「有田 晃之助」と改名して日活太秦撮影所時代劇部に移籍する[1][2][4][5]。1932年(昭和7年)1月7日に公開された辻吉朗監督映画『討入以前』では浅野内匠頭役を演じたが、日活時代劇には馴染めず、間も無く芸名を「市川 龍男」に戻して東活映画社に移籍[1][2][4][5]。その後、東活は直ぐに解散した為、1933年(昭和8年)に宝塚キネマ興行へ移籍、翌々1935年(昭和10年)には極東映画甲陽撮影所へ移籍するが、1936年(昭和11年)になると撮影所は古市白鳥園撮影所へ異動になるなど、三流キネマを転々とした[1][2][4][5]。ところが、1937年(昭和12年)10月21日に公開された国島昌平監督映画『名槍日本號』以降の出演作品が見当たらず、また、同年に改組された極東キネマ株式会社に継続入社した様子もない[1][2][5]。退社後の動向は不明[1][2]だが、この後実演に出たものと思われ、1944年(昭和19年)4月、京都府京都市にあった新京極新富座で上演された大合同劇にて、初代中村吉十郎片岡松右衛門市川紅之助林長之助市川寿三郎松園桃子と共演した記録が残っている[7]

1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集』(キネマ旬報社)などでは、第二次世界大戦終結後の来歴は述べられておらず、以後の消息は不明・没年不詳とする[1][2]が、『キネマ旬報』1964年2月下旬号によれば、終戦直後の1945年(昭和20年)にえくらん社へ入社していたといい、また、1963年(昭和38年)12月1日に開催された第8回「映画の日」中央大会において、映画業界に40年以上勤務した永年勤続功労章受章者として、杉狂児武井龍三大邦一公浦辺粂子らと共に表彰されている[6]。晩年の消息は伝えられていない[1][2][5]没年不詳

芸名

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出演作品

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初期

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全て製作・配給は「帝国キネマ演芸」、全てサイレント映画、全て「市川市松」名義である。

マキノ・プロダクション御室撮影所

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全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画、全て「市川新蔵」名義である。

東亜キネマ京都撮影所

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特筆以外、全て製作は「東亜キネマ京都撮影所」、配給は「東亜キネマ」、全てサイレント映画、全て「市川龍男」名義である。

日活太秦撮影所

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全て製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、全てサイレント映画、全て「有田晃之助」名義である。

宝塚キネマ

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全て製作・配給は「宝塚キネマ興行」、全てサイレント映画、以降全て「市川龍男」名義である。

極東映画

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特筆以外、全て製作・配給は「極東映画」、特筆以外は全てサイレント映画である。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、55頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1998年、54頁。 
  3. ^ a b c d e f 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、6頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』映画世界社、1934年、20頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 『チャンバラ王国 極東』ワイズ出版、1998年、170-171頁。 
  6. ^ a b 『キネマ旬報』1964年2月下旬号、172頁。
  7. ^ 『近代歌舞伎年表 京都篇 別巻』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編、2005年、133頁。 

関連項目

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外部リンク

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