服部俊一
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服部 俊一(はっとり しゅんいち、1853年(嘉永6年)3月8日 - 1928年(昭和3年)3月15日)は、明治・大正期の実業家。農商務省兵庫造船所勤務などを経て、東洋紡績取締役となる[1]。名古屋教会長老。
経歴
[編集]医師竹田良安の次男として現在の山口県で生まれる。
1871年(明治4年)、長州藩儒服部東陽の養嗣子となった。
1875年(明治8年)東京工部大学機械科入学。義兄服部章蔵の英語による聖書講義に接して信仰心を起こし、明治10年に新栄教会でタムソンより受洗。明治14年に東京工部大学機概科を卒業。
1882年(明治14年)、白洲次郎の祖父である三田藩儒者白洲退蔵の長女駒子と結婚。
1887年(明治20年)に尾張紡績創立に参画[1]。イギリスに渡り実地で経理を修める。
1896年(明治29年)、桑名紡績、知多紡績創業顧問。
1905年(明治38年)、三重・尾張・名古屋紡績合併のとき三重紡績に入り工務長を務める。
1912年(明治45年)、同社と5社との合併時に取締役となる。
1914年(大正3年)、三重・大阪紡績を合併し、東洋紡績創立時に取締役を再任。
1915年(大正4年)工学博士。
1920年(大正9年)に東洋紡績を辞す。
紺綬褒章受章。享年75歳。
脚注
[編集]- ^ a b c 日外アソシエーツ. “服部俊一 20世紀日本人名事典の解説”. コトバンク. 朝日新聞社/VOYAGE GROUP. 2017年3月2日閲覧。