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白洲退蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しらす たいぞう

白洲 退蔵
白洲退蔵
生誕 純太郎
(1829-08-14) 1829年8月14日
摂津国三田薬師寺町 
死没 (1891-09-10) 1891年9月10日(62歳没)
兵庫県神戸市
国籍 日本の旗 日本
別名 良弼(諱)
職業 儒学者町奉行郡奉行実業家
著名な実績 神戸女学院の創設
子供 白洲文平
家族 白洲次郎(孫)
牧山桂子(曾孫)
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白洲 退蔵(しらす たいぞう、1829年8月14日文政12年7月15日) - 1891年明治24年)9月10日)は、江戸時代から明治にかけて活躍した日本の役人、実業家である。神戸女学院の創設者の一人。白洲文平の父で、白洲次郎の祖父。

生涯

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生い立ち

退蔵は1829年文政12年)に、三田藩儒官、すなわち三田藩で儒学を教授している人物の子として[1]、三田藩内(現・兵庫県三田市)の薬師寺町で生まれた。幼名は純太郎。諱は良弼(りょうすけ)[2]

篠崎小竹古賀謹一郎から学び、藩校「造士館」の教授になる。

三田藩の藩政への関与

1862年文久2年)町奉行郡奉行になり、財政再建に取り組む。1863年(文久3年)に藩主九鬼隆義に請われて藩重役大参事として藩政に加わる。良く時勢を洞察して、諸藩に先立って、古参の藩士たちを説得して、藩政の改革を着手する。特に、西洋文明を輸入することを勧め、中村敬宇福沢諭吉[3]の翻訳所などを日々藩主に紹介して、閲覧を進めて、衣服や器具などすべてを西洋風にするようになった。また、退蔵の指導のもと、藩兵の大胆な改革を行い、鎧冑をすべて売却して、西洋式軍装に350丁のスナイドル銃を持つようになる[4]

三田藩の殖産興業に勤め、三田米を使用した「牡丹政宗」という銘柄を造ったり、三田牛(神戸牛)の飼育を奨励したりする。

1854年嘉永7年)のペリー黒船来航の時には、浦賀に出かけて農民の姿を装い情報を収集する。戊辰戦争の際には、藩論を統一して倒幕に加わる。

廃藩置県

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1868年明治元年)明治維新で、三田県大参事になる。しかし、小寺泰次郎と共に進めた厳しい政策により、農民一揆がおきている。川本幸民を講師として洋学を学ばせる。

志摩三商会

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1871年(明治4年)の廃藩置県で九鬼隆義は三田藩知事の職を失い神戸に住む。退蔵は政府より民部省への仕官を打診されるが福沢諭吉の教えに従い固辞する。1873年(明治6年)退蔵は神戸で九鬼隆義、小寺泰次郎と共に、三田の士族の16名の出資により合名会社志摩三商会」を設立し、九鬼隆義が総裁、白洲退蔵が社長に就任する[5]

1875年(明治8年)退蔵は九鬼隆義の要請により[6][7]屋敷を提供して学校(後の神戸女学院)の創立に協力する。1880年(明治13年)兵庫県初代県会議員になる。

銀行頭取・役人

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1882年(明治15年)8月、退蔵は、福沢諭吉と九鬼隆義の推薦により、横浜正金銀行(現・東京三菱銀行)の副頭取になる。また、翌年1月に第3代頭取になった後、3月に辞任し[8]、大蔵御用掛や岐阜県大書記官などを務めた。

晩年

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1890年(明治23年)には、役人を辞職して九鬼家の主宰を務めた。1891年(明治24年)1月24日に九鬼隆義が死去すると、退蔵も9月1日に発病して、9月10日に死去する。享年63(満62歳没)。

家系

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脚注

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  1. ^ 中里介山・白洲次郎にみる 新中間層の成り上がりと 多摩地域の関係多摩大学2011年度インターゼミ多摩学グループ、多摩学電子新書9号、2012年1月
  2. ^ 『全国版幕末維新人物事典』166頁
  3. ^ 中村敬宇の『自助論』、福沢諭吉の『雷銃操法』『西洋事情』『条約十一か国』『西洋旅案内』『西洋衣食住』などが読まれた。
  4. ^ 勝尾金弥(2012年)p.98-100
  5. ^ 勝尾金弥(2012年)p.110,p.182
  6. ^ 「九鬼隆義」『日本キリスト教歴史大事典』p.446
  7. ^ 学校法人神戸女学院「白洲次郎と神戸女学院を結ぶ縁(1)」
  8. ^ 白洲退蔵 神奈川県立歴史博物館

参考文献

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外部リンク

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先代
小野光景
横浜正金銀行頭取
第3代:1883年
次代
原六郎