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朝比奈昌親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
朝比奈昌親
時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長7年10月16日1602年11月29日
別名 新九郎
戒名 玉峯長珪禅定
墓所 新宿区舟町全勝寺
主君 武田信玄勝頼徳川家康秀忠
氏族 甲斐源氏武田氏支流今井氏朝比奈氏
父母 実父:今井信俊
養父:朝比奈昌是
兄弟 今井勝澄高尾昌俊朝比奈昌親
工藤昌祐
昌行久昌昌澄昌清
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朝比奈 昌親(あさひな まさちか)は、安土桃山時代武将。名は新九郎藤原昌親とも言う。

生涯

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甲斐武田氏の家臣。甲陽軍鑑では御料人様衆に名を列ねる。清和源氏武田氏庶流甲斐国今井氏の生まれだが朝比奈氏を継いだ。義父の藤太郎昌是藤原北家堤中納言兼輔の子孫たる堤公国の子・五郎国俊より17代の末裔で、武田信玄の家臣。天正3年(1575年長篠の戦いで戦死している。天正10年(1582年)武田氏が滅ぶと徳川家康に召され、大番役として仕え、駿河国志太郡(瀬戸谷)、有度郡(有東)、朝比奈藤一郎分、新田などの所領を安堵された。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いで戦功。天正18年(1590年小田原征伐にも従軍し、戦後の関東移封に際しては武蔵国入間郡に200石を与えられる。天正19年(1591年九戸政実の乱では岩出山城まで、文禄元年(1592年文禄の役では名護屋城まで従軍した。その後は徳川秀忠に仕え、慶長5年(1600年上田合戦にも従軍した。妻は武田氏の家臣で武田四天王の一人、内藤昌豊(昌秀)の実兄、工藤長門守こと工藤昌祐の娘。

家紋は左三つ巴・竹の節丸に三笹舞雀(勧修寺笹

昌親の子孫は、代々江戸幕府旗本として仕えた。分家長崎奉行を務めた朝比奈昌始(河内守または長門守、墓所は清源寺)、朝比奈甲斐守昌寿、日伊修好通商条約を締結した朝比奈昌広らを輩出し、駿河朝比奈氏 甲斐の族として有名。

系譜

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出典

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  • 寛政重修諸家譜』第757巻
  • 寛永諸家系図伝』藤原氏 良門流
  • 『干城録』第11巻
  • 丸島和洋「朝比奈藤太郎」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 丸島和洋「工藤長門守」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 村松圭三著『大森山長源院誌』大森山長源院、1993年
  • 太田亮著「朝比奈-甲斐の朝比奈氏」『姓氏家系大辞典』第1巻 国民社、1934年