木下俊哲
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木下 俊哲(きのした としあき、明治6年(1873年)2月23日 - 昭和11年(1936年)4月22日)は、明治から昭和期の華族(子爵)。環山と号した[1]。位階は正三位[2]。旧日出藩主木下家17代。
経歴・人物
[編集]1873年2月23日、旧日出藩主(最後の藩主)木下俊愿の三男として生まれる[3][4]。1884年7月8日、前日の華族令公布により、子爵を叙爵する。大正の終わり頃には、俊哲が何件もの連帯保証人となっていたことから、取り付けにあい、日出城二の丸にあった家屋敷や先祖代々の家宝を手放す。これにより、一家は日出から京都に出て、後に東京に移る[5]。その後、華族会館分館の主事を務めた[6][7]。1936年4月22日死去。享年63歳[8]。墓所は青山霊園1-イ2-25で、神式で葬られた。
親族
[編集]父は木下俊愿(1837年生)、母の綾子(1850年生)は伏原宣諭(伏原宣明の子)の娘。俊哲は兄に俊忠がいるが、兄を差し置いて俊哲が父親の跡を継いだ理由は不明である。なお俊忠は1928年2月9日に死去している。妻は公家出身の子爵の平松時厚の娘・速子。長男の木下俊凞は1936年の俊哲の死により子爵を襲爵した。娘の木下雅子は出雲大社教管長で千家男爵家分家の千家尊宣(千家尊福の弟・尊紀の五男)の後妻となった。千家尊福は母の妹の夫、母の兄に伏原宣足がいる[9]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 環山木下俊哲 黄虎洞中國文物ギャラリー
- ^ 青山霊園の墓誌より
- ^ 木下氏(豊後日出藩) 世界帝王辞典
- ^ 木下家(大分県)
- ^ 木下家19代当主・木下崇俊「木下家に伝わる秘密、何度も暗唱した父」 AERA dot. 2016年2月9日
- ^ 木下俊哲(きのした としあき) デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 木下 俊哲(キノシタ トシアキ) 20世紀日本人名事典
- ^ 木下俊哲 - 死去ネット
- ^ 伏原宣足『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (日出)木下家初代 1884年 - 1936年 |
次代 木下俊凞 |