木下利潔
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳元年(1711年) |
死没 | 元文5年7月21日(1740年8月13日) |
改名 | 文治郎、利潔 |
戒名 | 観光院殿性峯高潔大居士 |
墓所 |
京都市東山区の高台寺圓徳院 岡山市北区足守の大光寺 |
官位 | 従五位下式部少輔、美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 備中足守藩主 |
氏族 | 木下氏 |
父母 |
木下藤栄、坪内定鑑娘 木下㒶定 |
妻 | 木下㒶定養女 |
子 |
利忠、本多成美、利春、美代姫、 京極高久正室、石川総相正室、 織田信之正室 |
木下 利潔(きのした としきよ)は、江戸時代中期の大名。備中国足守藩6代藩主。官位は従五位下・式部少輔、美濃守。足守藩木下家7代。
略歴
[編集]4代藩主・木下利貞の次男木下藤栄(始め金森姓)の三男として誕生。幼名は文治郎。正徳元年(1711年)生まれとも、正徳3年(1713年)10月12日生まれとも言われている。
享保12年(1727年)6月に先代藩主・木下㒶定の養嗣子となり、享保14年(1729年)5月2日の公定の隠居で跡を継いだ。
元文5年(1740年)7月21日に死去し、跡を長男の利忠が継いだ。法号は観光院殿性峯高潔大居士。墓所は京都市東山区の高台寺の塔頭の一つ圓徳院、岡山市北区足守の大光寺。