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木下弥右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
木下弥右衛門
絵本太閤記
日吉丸降誕乃図(一部)の弥助昌吉
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文12年1月2日1543年2月5日[1]
別名 弥助[2]、昌吉[3][4]
戒名 妙雲院殿栄本虚儀
主君 織田信秀
氏族 不明[5]
父母 中村吉高(弥助)[2]
兄弟 弥右衛門福島正信[6]
大政所(なか)
瑞雲院日秀三好吉房室)、豊臣秀吉、女子[7]
特記
事項
『太閤素生記』をもとにする通説では秀長(小一郎)と朝日姫(旭)は竹阿弥の子とされるが、秀長は弥右衛門の子との異説もある。(竹阿弥を参照)
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木下 弥右衛門[5][3](きのした やえもん)は、戦国時代の人物で、太閤豊臣秀吉の実父であると推定される。(詳細は下記参照)

講談の種本である『真書太閤記』では中村 昌吉(なかむら まさよし)という名前で登場する。

人物

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姓や出自などについては多くの説があり、実像は判然としていない。家臣であった竹中重門がしたためた秀吉の一代記『豊鑑』ですら「郷のあやしの民の子なれば。父母のなもたれかは志らむ。一族なども志かなり」[10][11]とある。後世の史家は、苗字を持つ名主百姓であったとか、またはその逆に苗字を持たない最下層の貧民だったのではないかとか、下層農民、あるいは大工鍛冶師などの技術者集団、それに関連する売り商人、木地師、漂流民の山窩(広義的な傀儡子)の出身など、さまざまな説を主張している。結果として、秀吉は母の大政所の姉妹の嫁ぎ先や血縁者を用いたものの、弥右衛門の親戚や血縁者を用いることは一切していないので、弥右衛門の親兄弟を含めた出自が判明していない。

江戸時代に纏められた『尾張群書系図部集』や『尾陽雑記』、国学者天野信景の『塩尻』では、その先祖を近江国浅井郡草野郷に生まれた比叡山還俗中村国吉[13](昌盛法師)として、その子孫(孫)で織田達勝に仕えた吉高の子昌吉が秀吉の父であるとしている[2][14][15]。ただしこれは、従来より日吉山王権現との関係が指摘されており[16]、伝説との混濁がみられた。

秀吉自身も、実父の名は抹消しようとしており[17]大村由己に命じて書かせた『天正記』の中で皇胤説を匂わせさせて関白宣下の際に政治利用している[18]が、実父については言及した文書が存在しない。また『塩尻』でも、眼科の名医・福阿弥という者が(公卿の)子を胎んだ官女を下賜されて、後に弥助と名を変えて尾張中村に引き取ったとして、似通った落胤説が書かれている[19]。これは、神格化が始まる前、秀吉存命時より、日輪受胎伝説と呼ばれる太閤伝説の創作が始まっていて、秀吉自身が(諸外国に向けて)「日輪の子」であると言い出した文禄2年(1593年)を境に、実父の存在はすでにタブーとなっていたからで、天皇落胤説や公卿落胤説、中国西夏王の子孫説[20]なども、明らかな虚構であったが、意図して吹聴された形跡がある。

木下弥右衛門が、通説として秀吉の父であると受け入れられている存在[21]であるのは『太閤素生記』における以下の記述が元になっている。

一 父木下弥右衛門ト云中々村ノ人、信長公ノ親父信秀織田備後守鉄砲足軽也。爰(ここ)カシコニテ働キアリ。就夫手ヲ負五体不叶、中々村ヘ引込百姓ト成ル。太閤ト瑞龍院ヲ子ニ持チ、其後秀吉八歳ノ時、父弥右衛門死去。 — 『太閤素生記』[22]

これにより秀吉の父について、尾張国中村(中々村)[23]生まれで、織田家足軽[25]、あるいは雑兵(雇い兵)[26]であったが、ある合戦において負傷したために(片足が不虞になって[27])勤務を辞めて、故郷で帰農したという人物像が描き出されてきた。ただし『太閤素生記』の記述には2つ問題があり、下士に過ぎない人物が姓を名乗っていたとは思われない点と鉄砲伝来以前であるのに鉄砲足軽であったとする点[24]は、誤伝が含まれていることを示唆していた[24]ので、全面的に信頼できるものとはいえない。しかしそれでも、『甫庵太閤記』[28]以外の説で出生に関するほとんど唯一の史料で、『明良洪範』などの他誌にも引用されていると考えられ、同記は中々村の代官・稲熊助右衛門の娘(著者土屋知貞の養母)から直接聞いたとされる聞書(ききがき)としての一定の史料価値は評価されている[29]

一 秀吉母公ゴキソ村ト云所ニ生レテ木下弥右衛門所ヘ嫁シ、秀吉ト瑞龍院トヲ持、木下弥右衛門死去ノチ後家ト成テ、二人ノ子ヲハグ丶ミ中々村ニ居ル — 『太閤素生記』[30]

弥右衛門は、美濃の鍛冶・関兼貞(または関兼員)とも、尾張国愛知郡御器所村[31]の農夫の娘ともいう、なか(仲、大政所)を娶った。なかは、藤吉郎(豊臣秀吉)、とも(日秀、夫は三好吉房)、小一郎(秀長)、旭(朝日姫徳川家康継室。駿河御前)を授かった。上記のように、弥右衛門の子は藤吉郎とともの2人だけで、通説では、小一郎・旭についてはなかの後夫の竹阿弥の子で異父姉弟であるとされるが、生没年に齟齬があり、『絵本太閤記』などでは弥助(弥右衛門)が剃髪して竹阿弥と号したという内容になるため、異説もある。

天文12年(1543年)1月2日[1]、弥右衛門は、秀吉が7歳(または8歳)の時に死去した。戒名は妙雲院殿栄本虚儀。秀吉は母の大政所には生前に従一位、死後に准三后を追贈させたうえ、天瑞寺青巌寺を建立して供養したが、弥右衛門には官位の追贈は記録がなく、墓地を建てたことも判明していない。

関連史料

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脚注

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  1. ^ a b 『尾張群書系図部集』『京都瑞竜寺過去帳』『木下家系図』。
  2. ^ a b c 加藤国光 1997, p. 634
  3. ^ a b 『尾張群書系図部集』には、『武林評伝』『尾陽雑記』によるとする「昌吉」との諱が載せられている[8]。『尾陽雑記』は昌吉の父国吉を氏祖として、浅井重政の子孫に創っている[9]
  4. ^ 『絵本太閤記』では、筑阿弥と号した「弥助昌吉」という人物として登場。
  5. ^ a b 「木下弥右衛門」と記述された史料は『太閤素生記』(幕臣土屋知貞の著作)による。『太閤記』などの伝記では、子の秀吉が仕えた松下加兵衛が烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の地名を取って「中村藤吉郎」と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと伝わられている。
  6. ^ 諸系譜 第13冊』による
  7. ^ 『諸系譜』による。
  8. ^ 加藤国光 1997, pp. 634, 667.
  9. ^ 加藤国光 1997, p. 638.
  10. ^ 竹中 1894, p. 513, 『豊鑑』.
  11. ^ 古語の「あやし」は”卑しい”の意味。「志」は変体仮名で、平仮名の「し」にあたる。「志かなり」は、副詞「しか」+断定の助動詞「なり」で、その通りであるの意で、前行と併せると、ここでは”同様にわからない”の意味。
  12. ^ 加藤国光 1997, p. 637.
  13. ^ 『尾陽雑記』『浅井系図』では、国吉には、浅井重政の子、浅井氏政と同一人物であるとする説を述べている[12]
  14. ^ 小和田 1985, pp. 51–52.
  15. ^ 愛知県教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 尾三郷土史料叢書. 第2編 (尾陽雑記)』愛知県教育会、1932年、198-199頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236774/113 国立国会図書館デジタルコレクション 
  16. ^ 渡辺 1919, p. 27.
  17. ^ 小和田 1985, p. 42.
  18. ^ 小和田 1985, pp. 42–44.
  19. ^ 小和田 1985, p. 44.
  20. ^ 愛知県教育会 1932, p. 199-200.
  21. ^ 小和田 1985, p. 34.
  22. ^ 小和田 1985, p. 36.
  23. ^ 愛知県名古屋市中村区
  24. ^ a b c 小和田 1985, p. 37
  25. ^ 『太閤素生記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている[24]
  26. ^ 小和田 (1985, p. 57)には、『武功夜話』を信じるならば、弥右衛門は蜂須賀正利蜂須賀正勝の父)の配下だった可能性もあると述べられている。
  27. ^ 真田 1912, p. 181.
  28. ^ 『甫庵太閤記』では秀吉の父親は竹阿弥(筑阿弥)だとしている。なお、『太閤素生記』は『甫庵太閤記』出版の後に出たものである。
  29. ^ 小和田 1985, pp. 37–38.
  30. ^ 小和田 1985, p. 66.
  31. ^ 現愛知県名古屋市昭和区

参考文献

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  • 小和田哲男「出自の謎について」『豊臣秀吉』〈中公新書〉1985年。ISBN 4121007840 
  • 真田増誉国立国会図書館デジタルコレクション 明良洪範』 全25巻 続篇15、国書刊行会〈国書刊行会刊行書〉、1912年、181頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990298/104 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 竹中重門 著「国立国会図書館デジタルコレクション 豊鑑」、塙保己一 編『群書類従 第拾參輯』経済雑誌社、1894年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879780/261 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 渡辺世祐国立国会図書館デジタルコレクション 第一章 太閤の素生」『豊太閤と其家族』日本学術普及会〈歴史講座〉、1919年、28-34, 165頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953289/22 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 加藤国光 編『尾張群書系図部集(下)』続群書類従完成会、1997年。ISBN 4797105569