木下昌直
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長15年4月13日(1610年6月4日) |
改名 | 昌直→生安(号) |
別名 | 生直(諱)、四郎兵衛尉 |
戒名 | 心月生安 |
主君 | 龍造寺隆信→鍋島直茂 |
氏族 | 木下氏 |
父母 | 養父:木下覚順 |
兄弟 | 義兄弟:仙叔蔵王 |
妻 | 木下覚順娘 |
子 | 四郎兵衛 |
木下 昌直(きのした まさなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。龍造寺氏に仕えて武勇の誉れ高く、龍造寺四天王の一人と称される。
生涯
[編集]木下覚順(伊予守)の子であるが、実は京都出身で覚順の養子であったという[1]。肥前国から北九州を席巻する戦国大名・龍造寺隆信に仕え、その重臣・鍋島直茂の麾下となる。永禄5年(1562年)梶峰城攻略に従軍、敵将・内田治部少輔の首級を挙げる。また天正6年(1578年)梅尾城の小代氏攻撃では、かねてより交流のあった小代親忠の降伏を仲介している。
天正12年3月24日(1584年5月4日)島原半島における島津氏との戦い(沖田畷の戦い)では鍋島直茂ら率いる別働隊に加わる。しかし本隊は島津軍の攻撃により壊滅状態となり、隆信や主要な武将が相次いで戦死する。同僚だった北島治部丞と共に隆信の戦死を直茂に報告した昌直は、撤退を開始した鍋島隊の殿軍の将となって奮戦した。その後、直茂の部将である下村生運らが守将となっていた大野城へ赴き、守将らと共にようやく帰還した[2]。
文禄元年(1592年)文禄の役では鍋島直茂に従って渡海。その後は出家し、生安と号した。
後世、龍造寺四天王として数えられるが、四天王の中では唯一沖田畷の敗戦を生き残っているほか、隆信の直臣でなかったという点で他の四天王と一線を画している。子の四郎兵衛は龍造寺家をそのまま継承した鍋島氏に仕え、以後の子孫も佐賀藩士として命脈を保った。
脚注
[編集]出典
[編集]- 歴史群像編集部 編『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009年) ISBN 4054042902
- 佐賀県立図書館 編『佐賀県史料集成』古文書編 第29巻(佐賀県立図書館、1988年)
- 天草郡教育会 編『天草郡史料』第2輯(天草郡教育会、1914年)
- 肥前史談会 編『肥前叢書』第2輯(肥前史談会、1939年)
- 栗原荒野 編『校註葉隠』(内外書房、1943年)