コンテンツにスキップ

木山賢悟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

木山 賢悟 (きやま けんご、: Kengo Kiyama1953年 - 1983年6月10日) は、日本のモーターサイクル・ロードレーサーホンダ・NRホンダ・NSの車両開発ライダーを務めた。

経歴[編集]

ホンダ社員チームである鈴鹿レーシングに所属し、ホンダの市販用オートバイの開発テストライダーを担当。新型モデル発売時には広告ポスターでその走行モデルも担当する。また、全日本ロードレース選手権は2ストロークエンジンの350ccから750ccまでが混走している時代だったが、そこにホンダの4ストロークマシンであるCB550で挑み、軽量なヤマハスズキカワサキの2ストロークマシンに戦いを挑んだ。

1978年よりHRCの前身となるRSC所属となり、CB900などホンダの市販車だけでなくレース用ワークスマシンのNR500開発に携わる。ホンダの御膝下である鈴鹿で8時間耐久レースが開催されるようになるとCBで参戦し、まだ開発途上で中位から追いかける立場であるホンダのレース活動を下支えする[1]。1979年の鈴鹿8時間では同じくホンダでマシン開発をする阿部孝夫と組んで参戦し、4時間過ぎまでトップを走行。これを機に翌1980年大会では「日本人コンビの優勝候補筆頭」と呼ばれるようになった。この頃のインタビューでは「確実に、安定感ある走りを目指している。8時間レースは世界選手権でもあり、阿部選手とがんばって今年こそ優勝したい。常に自分のベストタイムから1秒落ちくらいのタイムで安定して走り続ける練習を重ねています。」と8耐制覇への意欲を語っている[2]

1981年の鈴鹿200kmレースでは、楕円ピストンを持つ4ストロークエンジン搭載「NR500」の参戦したレースにおける唯一の勝利を挙げたことで知られる。同年暮れよりホンダ内で「勝つためのマシン」として2ストローク3気筒エンジンのNS500開発がスタートし、阿部と共にこの開発にも寄与した。翌年からそのNSで世界GPを転戦した片山敬済は、「NSは木山選手が魂を込めて作ったマシン」と述べている。

1983年6月、全日本鈴鹿大会練習走行中にNS500で参戦中、ヘアピンからスプーンへと向かう途中の右高速コーナーで転倒し頭部を強打、意識が戻らぬまま息を引き取った。30歳没。

その死のショックは大きく、ホンダはこの後予選・決勝レースへの参戦を欠場した。

レース戦歴[編集]

全日本ロードレース選手権[編集]

チーム マシン 区分 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1976年 鈴鹿レーシング ホンダ・CB エキスパート 750cc SUZ
TSU
SUZ
SUZ
Ret
TSU
SUG
SUZ
4
SUG
TSU
SUZ
6位 12
1977年 ホンダ・CB550 750cc SUZ
7
SUZ
4
SUG
SUZ
3
SUZ
7
2位 39
1978年 Team RSC ホンダ・MT125R[3] 125cc TSU
3
SUZ
TSU
1
SUZ
TSU
4
SUG
2
SUZ
4
2位 48(56)
1981年 ホンダ・NR500 国際A級 500cc SUZ
Ret
SUZ
SUG
7
SUZ
1
SUG
SUZ
- -
1982年 ホンダ・NS500 500cc SUZ
Ret
TSU
SUZ
2
SUG
SUZ
Ret
TSU
TSU
SUG
SUZ
C
- -
1983年 Team HRC ホンダ・NS500 500cc SUZ
3
TSU
5
SUZ
Ret
TSU
Ret
SUG
Ret
SUZ
DNS
TSU SUG SUZ 12位 16
  • 1981・1982年の全日本500ccはレギュレーションにより最新ワークスマシンでの参戦者はポイント対象外とされた。

鈴鹿8時間耐久ロードレース[編集]

車番 チーム ペアライダー マシン 予選順位 決勝順位 周回数
1978年 62 鈴鹿レーシング 上田公次 ホンダ・CB810 18 6位 182
1979年 12 Team RSC 阿部孝夫 ホンダ・CB 3 Ret 105
1980年 22 阿部孝夫 ホンダ・CB900 4 5位 196
1982年 20 マイク・ボールドウィン (USA) ホンダ・RS1000 2 Ret 3

脚注[編集]

  1. ^ 8耐の本質と10回の敗北 本田技研工業 2013年
  2. ^ 「表紙のことば・木山賢悟 27才 RSC契約3年目」MFJライディング 日本モーターサイクルスポーツ協会 3頁 1980年7月1日発行
  3. ^ 近代レースの土壌を育む HONDAモータースポーツ