木村浩一郎
木村 浩一郎 | |
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プロフィール | |
リングネーム |
木村 浩一郎 スーパー宇宙パワー |
本名 | 木村 浩一郎 |
身長 | 185cm |
体重 | 90kg |
誕生日 | 1969年11月18日 |
死亡日 | 2014年10月28日(44歳没) |
出身地 | 群馬県館林市 |
スポーツ歴 |
レスリング 総合格闘技 柔道 |
デビュー | 1990年7月18日 |
木村 浩一郎 (きむら こういちろう、1969年11月18日 - 2014年10月28日) は、日本のプロレスラー、総合格闘家。
来歴
[編集]大東文化大学在学中の1989年、サブミッション・アーツ・レスリング(S.A.W.)に入門して格闘家としての活動をスタートした。1990年、FMWに参戦。7月18日の岡崎市体育館興行における三宅綾戦でプロレスデビュー。その後W★INGに参加し、柔道の徳田光輝、空手・誠心会館の齋藤彰俊らと共に格闘三兄弟の一人として活躍した。1991年にはリングスに参戦。5月11日の旗揚げ戦でSAWルールの試合を行い、12月7日からはリングスルールでの試合を行った。
1992年に大学を卒業、1994年には新格闘プロレス所属となり、1995年に西日本プロレスに所属後フリーとなった。4月20日にVALE TUDO JAPAN OPEN 1995の準決勝でヒクソン・グレイシーと対戦。1R2分7秒、スリーパーホールドで一本負け。
1997年からDDTプロレスリングに登場。DDTでは覆面レスラースーパー宇宙パワーになり新人レスラーのデビュー戦の相手を務めた。2000年より現場監督に就任。
2003年にWJプロレスに参戦して佐々木健介とシングルで対戦。2006年にはキングスロード、2008年にはバトラーツに参戦。他に不定期ながら池田大輔が率いるフーテンプロモーションにも参戦。2010年にハッスルに参戦。ハッスル崩壊後はハッスルMAN'Sワールドに参戦。2013年には、TAJIRI率いるWNCに参戦。
2014年10月28日、肺炎により死去[1]。44歳没。12月9日、新木場1stRINGで木村浩一郎追悼興行が開催された[2]。
女子総合格闘技への関わり
[編集]女子の総合格闘技に積極的に携わり、女子総合格闘技大会スマックガールにはレフェリーで参加しルールも作成。2001年10月にスマックガールのエースだった星野育蒔を看板に新たに女子の大会「AX」を旗揚げ。AXが2002年に活動休止してからは、2004年11月に修斗による女子大会「G-SHOOTO」の統括プロデューサーに就任。
タイトル歴
[編集]- KO-D無差別級王座:3回
- 第2代(木村浩一郎として)
- 第7・9代(スーパー宇宙パワーとして)
- KO-Dタッグ王座:2回
- 第2・3代(パートナーはMIKAMI)
- DDTタッグリーグ優勝
- 2000年(木村浩一郎として。パートナーは橋本友彦)
- KO-Dタッグリーグ優勝
- 2001年(スーパー宇宙パワーとして。パートナーはMIKAMI)
表彰
[編集]- 第42回国民体育大会 レスリング少年フリースタイル81kg級 3位
戦績
[編集]総合格闘技 戦績 | ||||||
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3 試合 | (T)KO | 一本 | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 |
1 勝 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 |
2 敗 | 0 | 2 | 0 | 0 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
× | ヒクソン・グレイシー | 1R 2:07 スリーパーホールド | VALE TUDO JAPAN OPEN 1995 【準決勝】 |
1995年4月20日 |
○ | ウェイン・エモンズ | 1R 6:41 フロントフェイスロック | VALE TUDO JAPAN OPEN 1995 【敗者復活戦】 |
1995年4月20日 |
× | トッド・ヘイズ | 1R 2:55 フロントスリーパーホールド | VALE TUDO JAPAN OPEN 1995 【1回戦】 |
1995年4月20日 |
映画出演
[編集]- 龍が如く 劇場版 - ヤクザ役
脚注
[編集]- ^ “W☆ING、リングス、DDTなどで活躍した木村浩一郎さんが死去”. バトル・ニュース. (2014年10月29日)
- ^ “【木村浩一郎追悼興行リポート】”. DDTプロレスリング (2014年12月9日). 2015年2月21日閲覧。