コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

木村鐙子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
明治女学校取締であった木村鐙子

木村 鐙子(きむら とうこ、1848年7月26日嘉永元年6月26日) - 1886年明治19年)8月18日)は、木村熊二の妻で、日本の伝道者教育者でもある。木村とう子とも表記される。儒学者佐藤一斎の曾孫で、田口卯吉の異父姉。

略歴

[編集]

佐藤一斎の長男・慎左衛門と田口可都の娘・町子(まち)とその婿・田口耕三(旧姓井上)の娘として生まれる[1]。曽祖父の儒学者佐藤一斎により「鐙」と名づけられた。父の耕三が早世したため、母が再婚し、弟の田口卯吉が生まれる[1]

1865年に曽祖父・一斎の弟子である木村熊二と結婚したが、歩兵局勤務の熊二は天狗党の乱征長の役などで忙しく、鐙子は実家で暮らした[2]。熊二帰京後、下谷で同居を始め、長男・祐吉(1867-1899)を儲けるも、国事に忙しい熊二は鐙子らを根岸村の農家に寄宿させ、自身は静岡に単身赴任、鐙子は裁縫や売り食いで糊口を凌いだ[3]

1870年に熊二が米国へ留学し、1882年に帰朝するまでの13年間、貧困の中、息子を育てながら異母弟・田口卯吉の経済雑誌社の仕事を支えた[4]。キリスト教徒となって帰国した夫に従って、1882年(明治15年)下谷教会グイド・フルベッキ宣教師より洗礼を受ける。

1885年(明治18年)9月30日の明治女学校の開校に伴い、取締役に就任し、婦人運動禁酒運動に関わったが、翌年コレラで急逝する。谷中天王寺墓地に埋葬された。

死後

[編集]

植村正久は木村鐙子に死去の際に「木村とう子のひつぎを送る歌」として讃美歌を作る。1888年(明治21年)の『新撰讃美歌』に発表され、明治版昭和6年版昭和29年版(479番:『去りにしひとを』)の讃美歌に続いて採用された。

参考文献

[編集]
  • 『讃美歌略解』日本基督教団出版局、1955年
  • 『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年
  • 巖本善治『木村鐙子小伝 : 完』女學雑誌社〈女學叢書〉、1887年。doi:10.11501/781292NCID BA41486869全国書誌番号:40018289 
    • 巖本善治『木村鐙子小傳』(復刻版)巖本記念会、1978年。 NCID BN0590618X 

脚注

[編集]
  1. ^ a b 田中佩刀、「佐藤一齋先生年譜補遺」『明治大学教養論集』 134巻, 1980-03-01, ISSN 0389-6005.
  2. ^ 木村鐙子小伝 1887, p. 5.
  3. ^ 木村鐙子小伝 1887, p. 8.
  4. ^ 金沢幾子「福田徳三と田口卯吉をめぐる人々」『実践女子短期大学紀要』第34号、実践女子短期大学、2013年3月、143-161頁、ISSN 1347-7196NAID 110009587137