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本田威志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本田 威志
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県岡崎市
生年月日 (1937-08-20) 1937年8月20日
没年月日 (2010-07-27) 2010年7月27日(72歳没)
身長
体重
171 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1960年
初出場 1960年
最終出場 1964年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

本田 威志(ほんだ たけし、1937年8月20日 - 2010年7月27日)は、日本の元プロ野球選手内野手)。愛知県岡崎市出身。

長男は現・プロ野球審判員本田英志

来歴・人物

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愛知県立岡崎高等学校では2年生の時、遊撃手として1954年春の選抜に出場。1回戦で八田正のいた鳴門高に敗退[1]。同年の春季中部大会は決勝に進み、1年上の河井学(毎日オリオンズ)が四日市高巽一との投げ合いを制し優勝。同年夏の甲子園県予選でも準決勝に進出するが、中京商中山俊丈に抑えられ完封負けを喫する。1年上のチームメートには河井とともに投の二本柱を組んだ杉浦四郎(毎日オリオンズ)がいた。翌1955年夏の甲子園県予選でも準決勝に進出するが、東邦高に完封負け。

卒業後は中央大学へ進学。東都大学リーグでは1958年春季リーグで5年ぶりの優勝に貢献。同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で立大に惜敗し準優勝。しかしチームは部員の不祥事により1959年春季リーグ出場停止、同年秋季リーグから二部に降格された。リーグ通算75試合出場、273打数76安打、打率.278、0本塁打、32打点。ベストナイン1回(二塁手)。大学1年上には後に大洋でチームメイトとなる桑田武森田斌、同期に小栗秀夫、若生照元の両エースと西山弘二広島)がいた。

1960年大洋ホエールズに入団。1年目から内野手として3試合に先発出場するが、二塁手のポジションは同期入団の近藤昭仁が獲得したこともあり、あまり出場機会に恵まれなかった。1962年中日ドラゴンズに移籍、1964年限りで引退。

引退後は中日で二軍マネージャー(1965年 - 1969年)→一軍マネージャー(1970年 - 1988年)、スカウト(1989年 - 1994年)→スカウト部長(1995年 - 2003年)→スカウト部長付顧問(2004年 - 2005年)を歴任。マネージャー時代はチーム内で「本マネ」の愛称で呼ばれた[2]。スカウト時代は中田宗男に部長の任を譲った後に退団。

2010年7月27日、脳梗塞のため、愛知県豊田市の病院で死去。享年72[3]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1960 大洋 17 14 13 0 1 0 0 0 1 0 1 0 0 0 1 0 0 4 0 .077 .143 .077 .220
1961 17 13 13 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1962 中日 8 4 3 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .000 .250 .000 .250
1963 5 4 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .250 .250 .250 .500
1964 20 19 19 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .053 .053 .053 .105
通算:5年 67 54 52 3 3 0 0 0 3 0 1 0 0 0 2 0 0 12 0 .058 .093 .058 .150

背番号

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  • 51(1960年 - 1961年)
  • 56(1962年 - 1964年)

脚注

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  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 2010年7月28日付中日新聞紙面
  3. ^ 本田威志氏死去(元プロ野球大洋、中日内野手、前中日スカウト部長) - 時事通信2010年7月27日配信、7月28日閲覧

関連項目

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