朴元錫
朴元錫 박원석 | |
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生誕 |
1923年3月27日 日本統治下朝鮮忠清南道大徳郡(現・大田広域市) |
死没 |
2015年11月30日(92歳没) 大韓民国 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 大韓民国空軍 |
最終階級 |
少尉(日本陸軍) 中将(韓国空軍) |
墓所 | 国立ソウル顕忠院第1忠魂堂3-320室45号 |
朴 元錫(パク・ウォンソク、박원석)は大日本帝国陸軍の軍人及び大韓民国の軍人、政治家、企業家。本貫は密陽朴氏[1]。創氏改名時の日本名は徳田元教[2]。
経歴
[編集]1923年3月、忠清南道大徳で生まれる。1941年、大田公立中学校卒業[2]。1942年4月、陸軍予科士官学校入学[2]。1945年3月、陸軍航空士官学校第58期卒業。同年7月1日、陸軍少尉任官[3]。ソ連の参戦に対応するため、南満地区の飛行場に配属され、司令部偵察機を操縦した[2]。終戦後は満州国軍出身朝鮮人将校が組織した新京保安司令部で活動[2]。
1948年4月、陸軍士官学校第5期卒業、任少尉(軍番50020番)。第2連隊に配属[4]。同年7月、航空基地司令部整備中隊長[4]。
1949年、空軍士官学校教授処長(大尉)。同年2月、軍内の左翼を除去する粛軍事業により、朴正熙と共に南労党に関与した疑いで陸軍本部情報局に連行され調査を受けたが、校長の金貞烈の救命運動によって解放された[4]。
1952年6月、第1戦闘飛行団参謀長兼作戦処長。同年10月、空軍本部作戦局長。
1953年4月、空軍士官学校副校長兼教授部長。同年12月、第1訓練飛行団副団長。
1956年7月、空軍大学総長。
1958年6月、空軍本部軍需局長。
1960年8月、空軍士官学校校長。
1962年8月、参謀次長、任少将。
1963年2月、中央情報部次長。同年7月、国家再建最高会議最高委員・外務国防委員長。
1964年8月、参謀総長、任中将。在任中、北朝鮮空軍がMiG-17やMiG-21を保有すると、これに対応してF-5A/Bを導入した。また韓国軍のベトナム戦争派兵では空輸任務を担当し、負傷患者および物資輸送のためC-54輸送機を導入した。ほかに軍需司令部を創設するなど軍需能力を向上させた。
1966年8月、予備役編入。同年9月、大韓石油公社社長。雙龍精油設立に寄与した。
2008年4月29日に民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[5]。
学歴
[編集]叙勲
[編集]- 銀星忠武武功勲章 - 1951年
- 共匪討伐記章 - 1952年
- 朝鮮戦争従軍記章 - 1952年
- 大統領綬章 - 1952年
- 金星忠武武功勲章 - 1953年
- 大統領綬章 - 1954年
- 無星乙支武功勲章 - 1954年
- 国連従軍記章 - 1954年
- 三等勤務功労勲章 - 1962年
- 一等勤務功労勲章 - 1963年
- ベトナム韓国特殊勲章二等 - 1965年
- 大授雲麾勲章 - 1965年
- 功労勲章 - 1965年
出典
[編集]- ^ “(2)밀양 박씨(密陽朴氏)-3,031,478명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月5日). 2022年8月15日閲覧。
- ^ a b c d e 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 82.
- ^ “第145号 昭和20年7月1日 陸軍異動通報” (PDF). アジア歴史資料センター. pp. 1396. 2019年3月29日閲覧。
- ^ a b c 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 83.
- ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日) 2021年5月21日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆 (1976). 朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで. 原書房
- 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 2. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-04-9
- “第8代参謀総長 朴元錫中将” (韓国語). 大韓民国空軍. 2015年10月16日閲覧。
- “제8대 공군참모총장 박원석 별세” (朝鮮語). HONEST NEWS. (2015年12月1日) 2015年12月23日閲覧。
軍職 | ||
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先代 申攸浹 |
大韓民国空軍士官学校校長 第8代:1960.8.1 – 1962.8.1 |
次代 朴熙東 |
先代 張盛煥 |
大韓民国空軍参謀総長 第8代:1964.8.1 - 1966.7.31 |
次代 張志良 |