張盛煥
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張盛煥 | |
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生誕 |
1920年10月27日 日本統治下朝鮮京畿道京城府 |
死没 |
2015年1月4日(94歳没) 大韓民国 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 大韓民国空軍 |
最終階級 |
中尉(日本陸軍) 中将(韓国空軍) |
張 盛煥(チャン・ソンファン、장성환、1920年10月27日 - 2015年1月4日)は大日本帝国陸軍の軍人及び大韓民国の軍人、政治家、企業家。本貫は仁同張氏[1]。
経歴
[編集]1920年、京城府に生まれる。1941年、早稲田大学商学部卒業。1942年、岐阜陸軍飛行学校、浜松陸軍飛行学校卒業。
1948年4月、韓国軍入隊。同年6月15日、航空基地司令部勤務。同年9月、航空基地司令部飛行部隊小隊長。1949年9月31日、飛行団飛行隊第2中隊長[2]。
1950年6月、朝鮮戦争が勃発するとF-51D操縦要員として板付に派遣された。同年11月、空中輸送班長。韓国空軍初の空輸任務を遂行した。1952年7月、駐アメリカ大使館付武官。
1954年9月10日、第1訓練飛行団長[2]。
1955年10月15日、第5混成飛行団長。
1957年2月11日、空軍本部作戦参謀副長[2]。
1958年6月1日、空軍大学校総長[2]。同年9月1日、空軍本部行政参謀副長[2]。
1959年、軍事休戦委員代表、任少将。
1960年8月2日、空軍参謀次長[2]。
1962年8月1日、空軍参謀総長[2]、任中将。在任中、第30防空管制団(現防空管制司令部)を創設するなど戦力の増強に寄与した。
1964年8月1日、予備役編入後、駐タイ大使。
1967年、大韓航空公社社長。
1968年1月、大韓航空協会会長。第63回国際航空連盟総会に韓国代表団の最初の派遣を行い、ニューデリー韓国モデル航空協会傘下団体の加入を承認[3]。
1970年、国際観光公社総裁。
1971年1月、交通部長官。
叙勲
[編集]- 功労勲章(アメリカ) - 1952年
- 無星乙支武功勲章 - 1956年
- 無星忠武武功勲章 - 1956年
- 無星花郎武功勲章 - 1956年
- 功労勲章(アメリカ) - 1962年
- 一等勤務功労勲章 - 1963年
- 功労勲章(アメリカ) - 1964年
- 大授雲麾勲章(中華民国) - 1964年6月4日[4]
- 大統領功労表彰 - 1964年
出典
[編集]- ^ “인동 장씨(제자 초정 권창윤)” (朝鮮語). 중앙일보 (1982年4月17日). 2022年8月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g 韓国国防部 1971, p. 706.
- ^ “歴史” (朝鮮語). 大韓民国航空会. 2018年1月27日閲覧。
- ^ “劉馭萬大使代表政府贈勳張盛煥中將”. 中央通訊社影像空間 2015年12月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
- “第7代参謀総長 張盛煥中将” (朝鮮語). 大韓民国空軍. 2015年12月22日閲覧。
- “[부고]장성환 전 공군참모총장 별세” (朝鮮語). 글로벌디펜스뉴스. (2015年1月5日) 2015年12月22日閲覧。
- “韓國戰爭史第4巻 總反擊作戰期(1950.9.15~11.30)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2018年10月27日閲覧。
公職 | ||
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先代 白善燁 |
大韓民国交通部長官 第20代:1971 |
次代 金信 |
先代 申攸浹 |
大韓航空協会会長 第3代:1968.1 - 1971 |
次代 イ・サンヒ |
外交職 | ||
先代 李東元 |
在タイ王国大韓民国大使 第3代:1964年 - 1967年 |
次代 韓豹頊 |
軍職 | ||
先代 金信 |
韓国空軍参謀総長 第7代:1962.8.1 - 1964.8.1 |
次代 朴元錫 |