朴東均
朴東均 | |
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生誕 |
1919年1月29日 日本統治下朝鮮慶尚北道慶源郡 |
死没 |
2004年9月28日(85歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 |
満洲国軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
上尉(満州国軍) 少将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院第1将軍墓域218号 |
朴 東均(パク・トンギュン、박동균)は、大韓民国の軍人、軍医。本貫は咸陽朴氏[1]。創氏改名による日本名は松本崇[2]。
満洲国軍の軍医出身で、韓国軍における医務科の創設に貢献した。
経歴
[編集]1919年、咸鏡北道慶源に生まれる。1938年、鏡城高等普通学校卒業[3]。
1938年4月、中央陸軍訓練処に第7期生として入学[3]。1939年3月、哈爾濱の陸軍軍医学校に入学し、1943年に卒業[4]。以後、満州国軍軍医官として服務[4]。
1946年1月28日付で軍事英語学校卒業(軍番10032番)[5]。正尉(大尉)に任官され、南朝鮮国防警備隊第1連隊医務部部長として勤務を開始する[6]。
1947年12月28日、南朝鮮国防警備隊総司令部医務処長(~1949年8月18日)[7]。また、海岸警備隊総司令部医務参謀も兼任した[6]。
1948年8月、韓国陸軍の正式設立に伴い陸軍医務監(軍医総監に相当)に就任。当時の階級は大領[6]。また、軍医育成のため1949年、陸軍軍医学校校長(初代)[4]。在職中、陸軍歩兵学校と参謀学校一期生として高級将校教育を受けたのち、大阪の在日米軍第4師団に三ヶ月視察[6]。
朝鮮戦争勃発後、軍医学校を閉鎖して野戦医務団を設立[6]。その後、釜山に軍医学校を再建し、慶南地区衛戍司令官を兼任[6]。
1952年、軍事援護処長[4]。
1953年5月16日、任少将[8]、首都陸軍病院院長[2]。
同年9月23日、ソウル衛戍司令官[9]。
1954年4月、馬山に陸軍医務教育基地司令部を設置し、司令官兼軍医学校校長[10] [2]。
以降は医務から離れ、1955年、第2軍管区司令官[4]。
1956年、国防部兵務局長[4]。
1961年9月24日、予備役編入[11]。
大韓塩業株式会社社長、東亜用役株式会社社長、韓国建設資材協会会長を歴任[4]。
2008年4月29日に民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[12]。
勲章
[編集]- 乙支武功勲章
- 忠武武功勲章
出典
[編集]- ^ “(128) 함양박씨” (朝鮮語). 중앙일보 (1984年12月15日). 2024年9月13日閲覧。
- ^ a b c 白楊会 1980, p. 360.
- ^ a b 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 875.
- ^ a b c d e f g h 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 876.
- ^ 佐々木 1983, p. 86.
- ^ a b c d e f 白楊会 1980, p. 359.
- ^ “호국전몰용사공훈록 제5권(창군기)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 593. 2021年9月6日閲覧。
- ^ “元 少將, 中將으로” (朝鮮語). 부산일보. (1953年5月29日) 2019年10月22日閲覧。
- ^ “連続刊行物 東亜日報「서울衛戍司令官 朴東均少將任命」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年9月5日閲覧。
- ^ “連続刊行物 慶南新聞系列「軍醫學校校長 朴東均少將 着任」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年9月5日閲覧。
- ^ “連続刊行物 東亜日報「朴東均少將 등 豫備役에 編入」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年9月5日閲覧。
- ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日) 2021年9月6日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』(第4刷)原書房、1983年。ISBN 4-562-00798-2。
- 白楊会 編『満州国陸軍軍医学校 : 五族の軍医団』白楊会、1980年5月、360頁。NDLJP:11933299/201。
- 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 1. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-03-2
- “朴東均”. 国立大田顕忠院. 2021年9月6日閲覧。
軍職 | ||
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先代 申鶴鎮 |
南朝鮮国防警備隊総司令部医務処長 第2代:1947.12.28 - 1949.8.18 |
次代 尹致旺 |