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杉浦梅潭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
杉浦梅潭
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政9年1月9日1826年2月15日
死没 明治33年(1900年5月30日
改名 正一郎(幼名)→勝静(初名)→誠
別名 梅潭(号)、求之(字)
墓所 東京都杉並区和田の長延寺
官位 従五位下、兵庫
幕府 江戸幕府
氏族 小林氏久須美氏杉浦氏
父母 父:久須美祐義、母:真木(小林氏)
養父:杉浦求馬
正室:喜多豊田友直の長女)
継室:多嘉豊田友直の次女)
継々室:喜美林靏梁の養女、中井数馬の娘)
登志、正一郎、登美(杉浦譲三妻)、北二
養子:杉浦譲三
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杉浦 梅潭(すぎうら ばいたん)は江戸時代後期から明治時代の旗本、官僚、漢詩人。最後の箱館奉行。目付及び箱館奉行時代を書き記した日記『経年紀畧』、浪士組に関する記録帳『浪士一件』を著した。

生涯

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幼少期

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旗本小林氏の婿養子であった久須美祐義の子に生まれる。文政10年(1827年)に父が小林氏と離縁し、実家久須美家へ戻った。梅潭は母の元に残されたが、天保3年(1832年)10月に久須美家に引き取られた。天保14年(1843年)、祖父祐明大坂西町奉行に異動すると、父と共に大坂へ赴いた。ここで祖父の仕事ぶりを見学したり、武術の稽古を付けてもらった。嘉永元年(1848年)に旗本杉浦家の養子に入った。

その後嘉永4年(1851年)に大番衛士として幕府に仕官、鉄砲玉薬奉行、洋書調所頭取を経て、文久2年(1862年)8月、老中板倉勝静に抜擢されて目付に任命された。

目付時代

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文久3年(1863年)1月、政事総裁職松平春嶽に従い上洛、2月に京都について幕府に攘夷実行を迫る朝廷への上奏文の草案作成を担当する一方、前年12月に浪士組掛に任命、清河八郎暗殺に関わったとされる。3月に江戸へ戻るも12月に14代将軍徳川家茂に従い再び上洛、元治元年(1864年)5月、朝廷に横浜鎖港を約束した家茂に随行して江戸に帰還した。

しかし、前年3月に罷免された春嶽の後任として政事総裁職に就任した松平直克6月3日に横浜鎖港問題遂行の為に板倉勝静ら穏健派9人を罷免すべきと家茂に言上[1]、梅潭は17日に辞任した(翌18日に勝静も辞任)[2]

箱館奉行時代

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それから1年半後の慶応2年(1866年1月18日、箱館奉行に任命され、蝦夷地へ赴任、日露和親条約で日本とロシアの雑居地と決められた樺太の内、日本人居住地の南にロシア人が住居を建設する問題が発生、その交渉にあたった。しかし、本州では幕府が大政奉還、それに続く戊辰戦争で旧幕府側は劣勢に立たされた。やがて慶応4年(1868年)3月、朝廷に奉行所を明け渡すよう江戸から指令が届き、閏4月27日箱館裁判所総督清水谷公考に箱館奉行所を引き渡し、6月に江戸へ戻った。

晩年

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明治元年(1868年)12月、駿府藩公儀人に任命されたが、翌年8月2日に外務省に出仕、29日に開拓使の権判官に任命されて再び蝦夷地に赴任、明治10年(1877年)1月29日に退官するまで開拓長官黒田清隆の元で働いた。退官後の翌明治11年(1878年)9月、向山黄村稲津南洋と共に晩翠吟社を創立、詩作で余生を送った。明治33年(1900年)5月30日死去、享年74。杉浦家は長男の正一郎と次男の北二に先立たれたため、次女登美の婿養子に迎えた高橋譲三が継いだ。

略歴

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脚注

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  1. ^ 直克が挙げた9人は勝静、酒井忠績松平乗謨若年寄)、諏訪忠誠大久保忠恕大目付)、木村勝教勘定奉行)、星野千之目付)、梅潭、菊池隆吉外国奉行)を指す。田口英爾著『最後の箱館奉行の日記』新潮選書刊、1995年(137 - 145ページ)
  2. ^ 17日に梅潭の他に忠恕、千之、隆吉の3人が、18日に勝静、忠績、乗謨、忠誠の4人が免職となったが、22日に直克も罷免された。勝教は7月13日に免職。

参考文献

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関連項目

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  • 日露間樺太島仮規則 - 小出秀実が条約締結の為にロシアに出張している間に箱館に赴任していた。
  • 天狗党の乱 - 横浜鎖港問題の最中に発生。直克はこの争乱を背景に鎖港を実施しようとしたとされる。