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李起鵬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李起鵬
이기붕 전 국회의장 공식 사진
各種表記
ハングル 이기붕
漢字 李起鵬
発音: イ・ギブン
日本語読み: り・きほう[1]
ローマ字 I Gibung
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李 起鵬(イ・ギブン、이기붕1896年12月20日 - 1960年4月28日)は、大韓民国政治家本貫全州李氏は「晩松」(マンソン、만송)。

来歴

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漢城出身。延喜専門学校(現:延世大学校)を中退して、宣教師通訳になって渡米し、アメリカアイオワ州デイバー大学(現・アイオワ大学)を卒業。卒業後、ニューヨーク許政などと共に『三一新報』の発刊に参加した[2]

1934年に帰国して、1945年米軍政庁軍政裁判長の通訳を務め、後に初代大韓民国大統領になる李承晩秘書として政界入りし、1948年には大統領秘書室長、1949年にはソウル特別市長に就任した。1951年国民防衛軍事件申性模国防部長官が解任されると、国防部長官になった。同年に自由党を創党して、1954年には四捨五入改憲を主導する程権力を握る様になり、この頃から彼の邸宅は「西大門景武台」とまで揶揄される様になった[2]

1960年に、不正選挙を通じて副大統領に当選したが、四月革命で失脚し、景武台(現:青瓦台)に身を避けたが、長男の李康石朝鮮語版(陸軍将校で李承晩の養子になっていた)の手によって、朴瑪利亜朝鮮語版夫人や次男(李康旭)とともに射殺された(長男も自決した)。李起鵬一家の邸宅は、一家無理心中後に政府に還収され、跡地に「4·19革命記念図書館」が建設された。

なお、1950年代初頭に大韓体育会長大韓オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会委員、仁荷工科大学理事長を務めたこともある[2][3]

脚注

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  1. ^ 崩れ去った独裁政治 中日映画社
  2. ^ a b c 이기붕(李起鵬)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年8月14日閲覧。
  3. ^ 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年7月22日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
申性模
大韓民国の旗 大韓民国国防部長官
第3代:1951 - 1952
次代
申泰英
先代
尹潽善
ソウル特別市長
第3-4代:1949 - 1951
次代
金泰善