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金炯旿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2010年

金 炯旿(キム・ヒョンオ、朝鮮語: 김형오1947年11月30日 - )は、大韓民国政治家。第14・15・16・17・18代大韓民国国会議員、第18代国会前半期の国会議長[1]

本貫金海金氏林堂임당/林堂)。キリスト教徒[1]

生涯

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慶尚南道固城郡に生まれた。釜山慶南高等学校卒業。ソウル大学校外交学科学士、ソウル大学校大学院政治学修士、慶南大学校政治学博士。釜山大学校最高経営者課程、漢陽大学校最高経営者課程、高麗大学校コンピュータ科学技術大学院最高位課程修了。公州大学校教育学名誉博士、天津大学管理学名誉博士[1]

東亜日報社の記者として勤めていたが、外交安保研究院という公共機関に転職した。政界入り後は国務総理政務秘書官、盧泰愚政権の大統領秘書室政務秘書官、金炯旿奨学会理事長、第14代国会予算決算特別委員会委員、東南亜ネットワーク社理事長、第15代国会通信科学技術委員会、科学技術情報通信委員会委員、第15代国会予算決算特別委員会委員、係数調整小委員、第16代国会科学技術情報通信委員会委員長、第17代国会農林海洋水産委員会委員、第18代前半期国会議長、第18代国会外交通商統一委員会委員、韓日議員連盟顧問を歴任し、党職としては民主自由党影島区地区党委員長・副代弁人ハンナラ党政策委員会副議長・事務総長・院内代表を歴任した[1]

その以後、金大中政権以来の国会議長出身者の政界引退という慣例によって、第18代国会の任期満了と同時に政界引退した。政界引退後は特別な活動がなかったが、文在寅政権発足後、当時の未来統合党代表だった黄教安によって21代総選挙の未来統合党候補者を審査する公認管理委員長職に委嘱された。しかし、党指導部が立てた選挙戦略の異見問題とあいまって辞職した[2][3][4][5][6][7]

エピソード

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2010年4月18日に現職の国会議長として初めて独島に上陸した[8]

脚注

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  1. ^ a b c d 대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2022年6月29日閲覧。
  2. ^ 김형오 “공관위원장 사퇴”…통합당 공천 갈등 이어져” (朝鮮語). KBS (2020年3月13日). 2022年6月28日閲覧。
  3. ^ <프로필> 김형오 한나라당 원내대표” (朝鮮語). 聯合ニュース (2006年7月13日). 2022年6月28日閲覧。
  4. ^ 한나라 새 사무총장 김형오(종합)” (朝鮮語). 聯合ニュース (2004年3月30日). 2022年6月28日閲覧。
  5. ^ <프로필> 김형오 인수위 부위원장” (朝鮮語). 聯合ニュース (2007年12月25日). 2022年6月28日閲覧。
  6. ^ <표> 김형오 신상명세” (朝鮮語). 聯合ニュース (2003年5月28日). 2022年6月28日閲覧。
  7. ^ [유인경이 만난사람"대통령 언행에서 위선이 보여요"]” (朝鮮語). 주간경향 (2006年9月15日). 2022年6月28日閲覧。
  8. ^ 김형오 의장, 현직 국회의장으로 첫 독도 방문” (朝鮮語). 대한뉴스 (2010年4月18日). 2023年10月16日閲覧。

外部リンク

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公職
先代
林采正
大韓民国国会議長
2008年7月10日 - 2010年5月29日
次代
朴熺太