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村松長太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村松 長太郎
基本情報
出身地 日本の旗 日本 大阪府
生年月日 (1921-05-09) 1921年5月9日
没年月日 (1944-06-20) 1944年6月20日(23歳没)
身長
体重
167 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手投手
プロ入り 1939年
初出場 1939年
最終出場 1942年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

村松 長太郎(むらまつ ちょうたろう、1921年5月9日[1] - 1944年6月20日)は大阪府出身のプロ野球選手

来歴・人物

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浪華商業学校(現・大阪体育大学附属中学校・浪商高等学校)在学中に甲子園に3回(1937年春1937年夏1938年春)出場。1937年春の大会では、サイドスローからの、スローカーブを武器に、徳島商に1失点したのみの4試合で3試合完封という当時の高校野球記録[2]を作り、優勝投手の栄誉に輝いた(この大会では優秀選手賞も受賞。特に決勝の中京商業戦では、野口二郎との投げ合いを制して2-0の完封勝ちを収めた。野口にとっては高校野球で喫した唯一の敗戦)。なお、後に野口とは現役時代を通じてチームメイトになった。翌1938年春の大会では三塁手として、生還打賞を受賞した。

1939年東京セネタースに入団。投手として入団したが、実際は外野手としての出場が、遙かに多かった。投手としての登板は1940年に11試合登板したのみで、1940年4月9日ライオン戦(西宮球場)がプロでの唯一の勝利だった。野手としては1939年~42年の間、左翼手として主に出場した。当時の東京セネタース監督だった苅田久徳は、自伝「天才内野手の誕生」で、「同時入団の村松長太郎も甲子園優勝投手。その村松をはるかにしのぐ快速球が(野口の場合)ビシッ、ビシッと決まるのだ。それはそうだ。格差がはっきり出てしまう・・・。」と、村松が野口との実力差を痛感して、野手転向したいきさつを記している。

1942年シーズン中に応召1944年6月20日大刀洗陸軍飛行学校菊池教育隊での飛行訓練中に、激突事故を起こし殉職した。享年23。結婚12日前だったと言われている。

東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑には彼の名が刻まれている。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1939 東京セネタース
34 99 81 4 13 1 1 0 16 3 1 -- 3 2 12 -- 1 5 -- .160 .271 .198 .469
1940 58 171 143 17 25 5 1 0 32 12 8 -- 2 1 25 -- 0 15 -- .175 .296 .224 .520
1941 大洋軍 36 65 58 7 7 1 0 0 8 1 0 -- 1 -- 6 -- 0 10 -- .121 .203 .138 .341
1942 70 303 271 18 52 11 1 0 65 12 6 0 3 -- 28 -- 1 36 -- .192 .270 .240 .510
通算:4年 198 638 553 46 97 18 3 0 121 28 15 0 9 3 71 -- 2 66 -- .175 .270 .219 .489
  • セネタース(東京セネタース)は、1940年途中に翼(翼軍)に球団名を変更

年度別投手成績

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W
H
I
P
1940 東京セネタース
11 7 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 152 35.2 32 1 15 -- 0 10 0 0 20 15 3.79 1.32
通算:1年 11 7 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 152 35.2 32 1 15 -- 0 10 0 0 20 15 3.79 1.32

背番号

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  • 8 (1939年 - 1940年)
  • 14 (1941年 - 1942年)

脚注

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  1. ^ 鎮魂の碑(野球殿堂博物館)
  2. ^ 翌1938年春の大会で、野口が4試合連続完封(チームも優勝した)で大会記録を更新。

関連項目

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