村瀬玄
村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、日本の会計学者。元東京商科大学(現・一橋大学)附属商学専門部教授。日本会計学会発起人。
人物・経歴
[編集]愛知県出身[1]。1899年愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業、同校嘱託教員[2]。1903年東京高等商業学校(現・一橋大学)附属商業教員養成所卒業[3]。1923年ペンシルベニア大学ウォートン・スクール卒業、MBA(経営学修士)[4][2]。
熊本県立商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)教諭時代の教え子に、のちに同僚になる堀潮がいた[5][6]。小倉市立小倉商業学校(現・福岡県立小倉商業高等学校)校長を経て[1]、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)教授在任中[7]、1921年から1924年までイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国に留学[1]。1925年勲六等瑞宝章受章[8]。
1926年東京商科大学(現・一橋大学)附属商学専門部教授兼同大学事務官[9][1]。1932年日本会計学会発起人[10]。1933年東京商科大学附属商業教員養成所主事事務取扱[11]。1936年叙従四位[12]。1941年紀元二千六百年祝典記念章受章[13]。1943年叙正四位[14]。
英語に堪能で、連合国軍占領下の日本において連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対し日本の企業会計説明を行ったり、依頼を受けGHQに企業会計原則の英訳を行うなどした[15]。
1948年会計士管理委員会委員[16]。1949年公認会計士審査会委員[17]。1950年企業会計基準審議会委員[18]。1952年企業会計審議会委員[19]。1953年公認会計士審査会(第2次)試験委員[20]。
千葉商科大学教授[2]、大妻女子専門学校(現・大妻女子大学)教授、成城大学教授[21]、企業会計制度対策調査会委員、安田保善社嘱託、早稲田大学講師、津田スクール・オブ・ビジネス講師などを歴任し[22]、日本大学教授在任中の1963年に死去した[23]。
著書
[編集]- 『最新商業簿記』(竹内正太郎と共著)実業之日本社 1903年
- 『工業会計の常識』千倉書房 1931年
- 『損益計算論』森山書店 1932年
- 『会計学提要 第1分冊』敬文堂書店 1938年
- 『会計学提要 第2分冊』敬文堂書店 1938年
- 『工業会計の常識 新訂』千倉書房 1939年
- 『新商業簿記 改稿』松邑三松堂 1939年
- 『會計學提要 再版』敬文堂書店 1940年
- 『工業会計入門』千倉書房 1943年
- 『英文簿記提要』新思潮社 1948年
- 『実践英文簿記』新思潮社 1949年
- 『新らしい銀行簿記』中央経済社 1953年
- 『英文簿記用語解説』中央経済社 1953年
- 『簿記論』財務経理協会 1956年
- 『工業簿記』財務経理協会 1956年
- 『英文簿記用語解説 新訂』中央経済社 1958年
- 『英和和英会計用語辞典』(中島省吾と共著)中央経済社 1960年
- 『簿記論 新訂版』税務経理協会 1962年
- 『英文簿記提要 改訂版』(若月正義校訂)新思潮社 1978年
脚注
[編集]- ^ a b c d 人事興信録 第12版下
- ^ a b c 簿記論 新訂版 図書 村瀬玄 著 税務経理協会, 1962
- ^ 官報 1903年07月14日
- ^ 東京商科大学一覧 昭和2年度
- ^ 「熊本商科大学の昇格と阿久津文庫」産業経営研究 = Studies of economics and business (31):2012.3
- ^ 官報 1915年07月07日
- ^ 官報 1924年04月18日
- ^ 報 1925年04月30日
- ^ 官報 1926年04月23日
- ^ 友岡賛「会計学の発展と財務諸表準則の意義 : 日本会計通史・序説(4)」三田商学研究
- ^ 一橋大学一覧学術情報リポジトリ
- ^ 官報 1936年10月26日
- ^ 官報 1941年10月23日
- ^ 官報 1943年04月19日
- ^ 番場嘉一郎「一橋会計学の系譜 一橋大学名誉教授 番場 嘉一郎」如水会
- ^ 官報昭和23年本紙第6514号 239頁
- ^ 官報昭和24年本紙第6763号 341頁
- ^ 官報 1950年10月03日
- ^ 官報昭和27年本紙第7710号 336頁
- ^ 官報昭和28年本紙第7929号 225頁
- ^ 英文簿記用語解説 新訂 図書 村瀬玄 著 中央経済社, 1958
- ^ 英文簿記提要 改訂版 図書
- ^ 租税研究 (5)(157) 雑誌 日本租税研究協會 (日本租税研究協会, 1963-05)
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