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村田四郎 (アニメーター)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村田 四郎(むらた しろう、1947年 - 2011年9月3日)は、日本アニメーターイラストレーター

概要

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1947年昭和22年)、山口県山口市に生まれる[1]

小学生の頃から図画に関する成績は優秀であり、賞状を多く授与されたとのこと。

幼少期から車好きであり、レーサー志望であった。上京後もスポーツカーに乗車し走行することを趣味とした。

中学卒業後、上京し東映動画(後の東映アニメーション)に就職、大塚康生に師事する。当時村田の兄が警察関係者であり、大塚自身も麻薬取締官を経験したのもあり、互いに知り合いであった。四郎が上京し漫画[注 1]の仕事に就きたい旨、兄が連絡したとのこと。作画の腕が良く、仕上がりの速さ等で評判だったという。

しばらく東映動画で活動後、1964年昭和39年)に退社し、山本アニメーション研究所(後のチルドレンズ・コーナー)に移籍。弱冠17歳で『おそ松くん』等の作品の作画監督の指揮を執る。

1968年昭和43年)にチルドレンズ・コーナーが解散し、東映動画に戻る。木村圭市郎に師事し『タイガーマスク』等の作品を原画・作画監督として担当する。

その後フリーランスに転身し、1993年頃まで日本テレビ動画の『ドラえもん』、和光プロダクションの『合身戦隊メカンダーロボ』等、会社規模が小さく、制作リソースが限られた現場への原画・作画監督・作業支援役として活躍する。中でも、国際映画社の『宗谷物語』では全話のキャラクターデザインと作画監督を担当した。

1974年昭和49年)、瑞鷹エンタープライズで合作作品に携わったことを転機に、ドイツのミュンヘンに渡り、ジョン・ハラス英語版のもと1年間作画監督をとる。

ドイツから帰国後、イージー・ワールド・プロ(後のイージー・フイルム)の作画部門の立ち上げに参加。その後も日本での活躍の合間に台湾や韓国へ作画監督として出向し、現地のアニメーターを指導しながら様々な作品に携わる。

その後、岩崎書店赤毛のアン』の挿絵の仕事を引受けた事をきっかけに挿絵画家に転身、はやみねかおる著『卒業 〜開かずの教室を開けるとき〜』の挿絵を最期[注 2]に、2011年平成23年)9月3日死去[2]

担当作品

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アニメーション

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映画

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挿絵

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脚注

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注釈

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  1. ^ 当時アニメという呼称は一般的ではなく、漫画映画やテレビ漫画、若しくは単に漫画等と呼ばれていた。
  2. ^ ただし村田四郎インタビュー上に「今は(※挿絵を含め)何もやってないですよ。殆どここ何年かは、描いてませんね。」という発言があるため、特にはやみねかおる作品の末巻については村田自身が描いていない可能性がある。

出典

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  1. ^ まんだらけZENBU No.46 村田四郎インタビューより
  2. ^ 講談社青い鳥文庫 画家紹介より

外部リンク

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