村田惇
村田 惇(むらた あつし、1854年11月22日(嘉永7年10月3日[1][2][3])- 1917年(大正6年)3月16日[1][2][注 1])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍内のロシア通として知られた。旧名・繁太郎[4]。
経歴
[編集]本籍静岡県[1][2][5]。江戸で幕臣・高野勘四郎尹元の二男として生まれ、村田政の養子となった[1][3]。
明治3年(1870年)9月より沼津兵学校で資業生(第6期)として学び[6]、明治4年(1871年)1月、沼津兵学校から貢進生として大阪兵学寮幼年学舎に編入[1][3]。1875年(明治8年)12月、陸軍士官学校(旧2期)に入学し、1879年(明治12年)2月、砲兵少尉に任官[1][3][7]。同年12月、陸士砲兵科を卒業し山砲兵第4大隊付となった[1]。
1882年(明治15年)、陸士教官に就任し、参謀本部長伝令使、フランス・イタリア留学[3]、陸軍砲兵射的学校教官などを歴任し、1891年(明治24年)11月、砲兵少佐に昇進[1]。1893年(明治26年)11月から1897年(明治30年)10月まで参謀本部副官を務め、この間、大本営管理部長、第2軍副官(日清戦争出征)を兼務した[1][2][3][5]。1895年(明治28年)3月、砲兵中佐に進級[1]。
1897年(明治30年)10月、砲兵大佐に進級し[5]第4師団参謀長に就任[1]。1898年(明治31年)5月、東宮武官となる[1]。翌年4月から1902年(明治35年)8月までロシア公使館付として勤務した[1]。
1902年5月、陸軍少将に昇進[1][5]。参謀本部付を経て、同年12月、佐世保要塞司令官に就任[1][2][5]。大本営幕僚付(外国係)、韓国統監府付などを経て、1909年(明治42年)8月、陸軍中将に進み築城部本部長となった[1][2][5]。1914年(大正3年)5月に待命、同年8月、予備役に編入となった[1][2][5]。
栄典
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)12月28日 - 従六位[8]
- 1895年(明治28年)7月15日 - 正六位[9]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[10]
- 1902年(明治35年)9月20日 - 正五位[11]
- 1907年(明治40年)10月11日 - 従四位[12]
- 1912年(大正元年)11月20日 - 正四位[13]
- 1914年(大正3年)9月1日 - 従三位[14]
- 勲章等
- 1892年(明治25年)5月28日 - 勲六等瑞宝章[15]
- 1895年(明治28年)10月18日 - 単光旭日章・功四級金鵄勲章[16]
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[17]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・功三級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[18]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[19]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[20]
- 外国勲章佩用允許
- 1887年(明治20年)3月14日 - オスマン帝国:メジジエ第三等勲章[21]
- 1895年(明治28年)10月14日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ[22]
- 1896年(明治29年)12月19日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス第二等勲章[23]
- 1897年(明治30年)9月10日
- *イギリス帝国:銀製ジュビリー記念章[24]
- 1902年(明治35年)12月26日
- 1905年(明治38年)7月6日 - 大韓帝国:勲一等八卦章[26]
- 1910年(明治43年)5月10日 - イギリス帝国:バス勲章ナイトコマンダー[27]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『沼津兵学校の研究』602頁では3月6日。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、157頁。
- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』719頁。
- ^ a b c d e f 『沼津兵学校の研究』602頁。
- ^ 『旧幕臣の明治維新』39頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』54頁。
- ^ 『沼津兵学校の研究』351頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』52、54頁。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3613号「叙任及辞令」1895年7月16日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5767号「叙任及辞令」1902年9月22日。
- ^ 『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。
- ^ 『官報』第94号「叙任及辞令」1912年11月21日。
- ^ 『官報』第627号「叙任及辞令」1914年9月2日。
- ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1109号「叙任及辞令」1887年3月15日。
- ^ 『官報』第3691号「叙任及辞令」1895年10月16日。
- ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
- ^ a b 『官報』第4263号「叙任及辞令」1897年9月15日。
- ^ a b 『官報』第5888号「叙任及辞令」1903年2月21日。
- ^ 『官報』第6608号「叙任及辞令」1905年7月11日。
- ^ 『官報』第8086号「叙任及辞令」1910年6月7日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 樋口雄彦『旧幕臣の明治維新 - 沼津兵学校とその群像』吉川弘文館、2005年。ISBN 4-642-05601-7
- 樋口雄彦『沼津兵学校の研究』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4-642-03780-8