来迎寺 (松阪市白粉町)
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来迎寺 | |
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重要文化財の本堂 | |
所在地 | 三重県松阪市白粉町512 |
位置 | 北緯34度34分15.9秒 東経136度31分56.2秒 / 北緯34.571083度 東経136.532278度 |
山号 | 教主山 |
院号 | 無量寿院 |
宗派 | 天台真盛宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | (伝)永正年間 |
文化財 | #文化財を参照 |
法人番号 | 3190005006954 |
来迎寺(らいごうじ)は、三重県松阪市白粉町にある天台真盛宗の仏教寺院。山号は教主山。院号は無量寿院。塔頭に覚性院。本尊は阿弥陀如来。
沿革
[編集]松ヶ島城下時代
[編集]永正年間(1504年~1521年)、北畠材親によって松ヶ島城下に創建された[1]。
松阪城下時代
[編集]天正16年(1588年)、蒲生氏郷の松阪城築城に伴って城下の現在地に移転した[2]。
享保元年(1716年)の松阪大火では、表門(現在の裏門)を除いて焼失したが、豪商三井家などの尽力により、8700両の費用をかけて再興された[3]。
江戸時代の国学者である本居宣長は、来迎寺の僧・戒言(かいごん)を門人としていた。戒言は宣長の奈良への旅に同行したほか、宣長の源氏物語講釈に参加したり、寺で花見・月見・紅葉等の歌会を開いたりしたという[4]。
文化財
[編集]重要文化財(国指定)
[編集]- 来迎寺本堂(指定 1988年5月11日)[5]
県指定文化財
[編集]- 紙本墨書真盛自筆消息 二月十七日盛音坊あて(指定 昭和46年3月17日)
市指定文化財
[編集]- 来迎寺裏門(指定 1988年4月26日)[7]
- 松坂城の中門を移築したものと伝えられる[8]。
- 北畠具教制翰(指定 1978年11月11日)
- 角屋七郎兵衛等供養碑(指定 1985年3月30日)
- 松本駝堂墓(指定 1985年3月30日)
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本堂
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裏門
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角屋七郎兵衛等供養碑
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松本駝堂墓
境内
[編集]近隣の同名寺院
[編集]松阪市飯南町(旧・飯南郡飯南町)にも同名の来迎寺がある。白粉町の来迎寺は「らいごうじ」と濁るが[5]、飯南町の来迎寺は「らいこうじ」と濁らない[14]。
現地情報
[編集]- 所在地
- 交通アクセス
脚注
[編集]- ^ 桜井祐吉(編)『校本松坂権輿雑集.地』三重県史談会、來迎寺之事、1919年2月26日、コマ番号33/78
- ^ 1-1 来迎寺本堂 松阪市、2014年8月3日閲覧。
- ^ 来迎寺 本居宣長記念館、2014年8月3日閲覧。
- ^ 戒言(カイゴン) 本居宣長記念館、2014年8月3日閲覧。
- ^ a b 来迎寺本堂 三重県教育委員会、2014年8月3日閲覧。
- ^ 紙本墨書真盛自筆消息・二月十七日盛音坊あて 三重県教育委員会、2014年8月3日閲覧。
- ^ 1-4 来迎寺裏門 松阪市、2014年8月3日閲覧。
- ^ ワークス 編 1997, p. 47.
- ^ 1-3 北畠具教制翰(来迎寺) 松阪市、2014年8月3日閲覧。
- ^ a b c 1-5 角屋七郎兵衛等供養碑並びに松本駝堂墓(来迎寺) 松阪市、2014年8月3日閲覧。
- ^ 本草学者の活躍 松阪の歴史、2014年8月3日閲覧。
- ^ 櫻井祐吉(著)『安南貿易家角屋七郎兵衛 : 附・松本一族』p.52
- ^ 櫻井祐吉(著)『安南貿易家角屋七郎兵衛 : 附・松本一族』p.53
- ^ 108-186 来迎寺銅鐘 松阪市、2014年8月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 櫻井祐吉(桜井祐吉)(著)『安南貿易家角屋七郎兵衛:附・松本一族』角屋七郎兵衛贈位報告祭協賛會、1929年4月25日
- 桜井祐吉(編)『校本松坂権輿雑集.地』三重県史談会、1919年2月26日
- ワークス 編 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典24 三重県』人文社、1997年10月1日、235頁。ISBN 4795910952。全国書誌番号:99023741