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東村 (茨城県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あずまむら
東村
廃止日 1939年6月1日
廃止理由 編入合併
東村土浦町
現在の自治体 土浦市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 茨城県
新治郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
隣接自治体 土浦町九重村小野川村
岡田村朝日村阿見村
東村役場
所在地 茨城県新治郡東村大字中
座標 北緯36度03分06秒 東経140度12分09秒 / 北緯36.05164度 東経140.20261度 / 36.05164; 140.20261 (東村)座標: 北緯36度03分06秒 東経140度12分09秒 / 北緯36.05164度 東経140.20261度 / 36.05164; 140.20261 (東村)
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東村(あずまむら、あづまむら)は、かつて茨城県新治郡に存在した。現在の土浦市の南部である。

位置・地勢

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新治郡の南端に位し、稲敷郡および筑波郡に接する。僅かに霞ケ浦に面する。山林あり耕地も多いが概ね平坦。永國および岩田には高地があるが、花室川潅漑とする水田が広がり肥沃である。大字乙戸に、東西約1キロの乙戸沼がある。

歴史

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文政年間に、中村から西根と追戸(乙戸)を分立。また岩田村から小岩田を分立し母体を大岩田に。さらに右籾村の南部を拓いて摩利山新田と称す。大部分は土浦藩領である。明治維新後は土浦明治5年に新治県、明治8年には茨城県の所轄に。明治40年東村軍友会が発足、明治43年には帝国在郷軍人会東村分会と改称する。

沿革

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  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、右籾村・摩利山新田・中村・中村西根村・永國村・大岩田村・小岩田村・烏山村・乙戸村が合併、信太郡東村。旧村は大字に移行する。
  • 1896年(明治29年)4月1日 - 信太郡消滅を期に郡村組替、新治郡東村
  • 1939年(昭和14年)6月1日 - 新治郡土浦町に編入し閉村。

地域

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戸口

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大正13年現在。人口3936、戸数685。

大字
(なか) 303 289 592 96
永國(ながくに) 142 125 267 45
小岩田(こいわだ) 144 146 290 47
大岩田(おおいわだ) 342 344 686 120
烏山(からすやま) 135 151 286 45
摩利山新田(まりやましんでん) 43 50 93 13
中村西根(なかむらにしね) 333 315 648 104
乙戸(おっと) 215 229 444 68
右籾(みぎもみ) N/A N/A 630 147

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小名、坪および小字を記す。永國は古くは長國とも称した。

  • 中 - 上宿、中宿、下宿
  • 永國 - 東、北、入、子、出崎、聖天
  • 小岩田 - 荒地、西田、内出、出戸、荒屋敷
  • 大岩田 - 白山、廣見、中臺、根崎、堂屋久保、竹子、木曾、辨才天、西ノ前、内根
  • 烏山 - 久保、新地、新屋敷、馬場、前峯、宮鈴臺
  • 中村西根 - 木曾、殿山、新町
  • 乙戸 - 中坪、中東、東、西、南
  • 右籾 - 久保、寺地、中屋敷、前、古辻、辻鍛治屋、高場、平

官公署

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村役場

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大字中。現在の土浦市中(旧中村一区)、市立東小学校の脇にある。現況は国道354号。初代村長・飯田太一郎。

村会

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村会定数は12。

警察・消防

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土浦警察署東村巡査駐在所巡査1。役場敷地内にて警察権を執行する。東村消防組は8部制(中部、中村西根部、永國部、小岩田部、大岩田部、烏山部、右籾部、乙戸部)。人員420名。

教育

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産業

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農業が主力でありを生産し、養蚕が次ぐ。他に蔬菜落花生など。東村農会において農業改良・指導を行い、農家の福利増進を図る。金融に関しては、右籾および大岩田に信用組あり、組合員に農業資金を供給する。

運輸・交通

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寺社

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人物

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その他

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  • 村松幸蔵翁頌徳碑 - 大字右籾。郷土発展に尽くし、生き神様と慕われたを頌す石碑昭和27年7月除幕。「踏正不退轉 犯艱救郷民 風骨冠一世 嗚呼義人」 

関連項目

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