コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

東石川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東石川
東石川の位置(茨城県内)
東石川
東石川
東石川の位置
北緯36度23分49.52秒 東経140度32分1秒 / 北緯36.3970889度 東経140.53361度 / 36.3970889; 140.53361
日本の旗 日本
都道府県 茨城県
市町村 ひたちなか市
人口
2024年(令和6年)6月30日現在)[1]
 • 合計 9,262人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
312-0052[2]
市外局番 029[3]
ナンバープレート 水戸

東石川(ひがしいしかわ)は、茨城県ひたちなか市大字郵便番号は 312-0052[2]

概要

[編集]

常陸国那珂郡のうち。1595年(文禄4年)のころ[4][注 1]石川村と称した。 中丸川の左岸・川上流域に位置し、外野開拓古墳群など縄文時代~奈良・平安期の遺跡がある[5]1843年(天保14年)大島村、外野村、外石川村が合併[6][注 2][7][注 3]して東石川村と改称された。水戸藩領。村高は、「旧高簿」695余。天保14年の合併の際、新村名を不満(新村名は外石川村の外を東にかえたにすぎないと不満をいだいて)とする外野村の百姓が連名で郡奉行に村名の再考を願う訴状を提出している(鴨志田美農家文書)。訴状に対する郡奉行所側の対応は不明だが、結果的には認められなかった[8][注 4]1871年(明治4年)茨城県1878年(明治11年)に那珂郡に所属。1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、柳沢村・部田野村・中根村・東石川村が合併し那珂郡中野村が発足。中野村の大字となる[5]1940年(昭和15年)4月29日に勝田村川田村と合併し勝田町となる。1954年(昭和29年)11月1日 - 佐野村を編入し市制施行、勝田市となる。1994年(平成6年)11月1日 - 那珂湊市と合併しひたちなか市となる。

嘉元大田文によれば武田郷・馬渡郷、石河郷(現在の東石川の一部)の諸郷は吉田郡(のちに那珂郡吉田郷となった)であった[9]。石河三(=9,000坪)とある。

那珂川北岸の郷村名を見ると、行方郡の郷村名と同じものが多い。たとえば、石川、中根、馬渡は、1343年(康永二年)書写の「鹿島神宮領田数注文案」(鹿島神宮文書、『茨城県史料=中世編Ⅰ』158ページ)に、行方郡「中根十六丁六十歩」、「馬渡六丁六反六十歩」、「石川三丁」とまったく同じ地名がみられる[10]。 このことは、平安時代末期から鎌倉時代初期のころ行方郡と吉田郡との間に、なんらかの関係があったことを示している。 那珂川北岸の経営にあたったのは、平清幹(吉田清幹)(大掾氏一門)の流れをくむ、吉田広幹の息子たちであった。ところで、行方郡の経営に従事したのも平清幹(吉田清幹)の次男の忠幹(行方平四郎)の流れをくむ、行方四頭(小高氏・島崎氏(嶋崎氏)・麻生氏・玉造氏)[注 5]といわれた行方景幹の息子たちなのである。したがって、行方四頭と吉田氏一族とは密接に結びついていたのである。吉田広幹とその息子たちは、那珂川北岸の経営にさいして行方景幹や、その息子たちの指導、援助を受けた事実があったのではないだろうか。その結果、吉田郡の郷村に石川、中根、馬渡、金上、石神などの行方郡内の郷村とまったく同じ地名が、つけられたものと思われる[11]

世帯数と人口

[編集]

2024年(令和6年)6月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数 人口
東石川 4,206世帯 9,262人

交通

[編集]

鉄道

[編集]

当地内に鉄道は通っていない。 なお、勝田駅はひたちなか市勝田中央1-1にある。

バス

[編集]

道路

[編集]

市の施設

[編集]
  • ひたちなか市役所

学校

[編集]

寺社

[編集]
  • 吉田神社(東石川2-5)
  • 土神社(東石川3-2-3)

参考文献

[編集]
  • 勝田市史編さん委員会 編『勝田市史 中世編・近世編』勝田市 勝田市史編さん委員会、1978年、1118頁。 
  • 角川日本地名大辞典『角川日本地名大辞典, 第8巻』角川日本地名大辞典編纂委員会、角川書店、1983年、1617頁。ISBN 4-040-01080-9 
  • 『日本歴史地名大系 第8巻 茨城県の地名 (オンデマンド版)』平凡社、2002年6月30日。ISBN 4-582-91027-0 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 佐竹氏一族の佐竹義久知行地となる
  2. ^ 中世において、外野、大島村の開発が、いちじるしく進んでいたのは、外野の「うなぎやら洞」(現在のうなぎ溜)と大島の「雷洞(いかずちどう)」(現在の大島溜(おおしまだめ)・雷池・大島公園)の水を「新堀」と呼ばれる灌漑堀を掘って流し、沖積低地の開墾に成功したからであろう。この「新堀」を流れる灌漑用水は、石川村(外石川村)の水田の開発にも大きな役割を果たしたのである。このように、外野、大島、石川(外石川村)の三村は、灌漑用水や開発をめぐって、強く結びついていたのである。
  3. ^ V-22図 谷津田と湧水分布図(昭和49年3月調査)(P272)、V-23図 溜池、灌漑堀、排水路分布図(昭和51年6月現在)(P276)、Ⅳ-22図 城、館、屋敷跡分布図(P183)を見ると、外野、大島、石川(外石川村)の三村の位置関係や地形上の特色がよく分かる。
  4. ^ 当時合村後の新しい村名をつけるにあたって、好みの名称があれば申してるようにと藩から達しがあったのですが、結果として東石川村となりました。このことから外野村の者達は、改称された村名は外石川村の外を東にかえたにすぎないと不満をいだいて、惣百姓が連名で改称の願書を藩に提出するなどの問題を起こしています。 改称されたいきさつは明らかではありませんが、当時外石川村が外野・大島両村より政治的に発言権を有していたものなのか、あるいは、藩ではよく「水戸城東外石川云々」などと称しているところから、ただ単に東の字をあてたものか、いずれかでしょう。
  5. ^ 島崎(嶋崎)殿父子の項を参照。

出典

[編集]
  1. ^ a b ひたちなか市の人口と世帯数(常住人口)”. ひたちなか市 (2024年6月30日). 2024年7月15日閲覧。
  2. ^ a b 日本郵便 - 東石川の郵便番号
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2020年12月15日閲覧。
  4. ^ 平凡社(2002)、p.209
  5. ^ a b 角川日本地名大辞典 1983, p. 796.
  6. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 230, 278–279.
  7. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 272, 276, 183.
  8. ^ ひたちなか市広報広聴課, 昭和の記事から2~東石川のうつりかわり, 2015/06/29, 「市報かつた」に昭和53年から昭和54年にかけて「文化財めぐり」として掲載された”ムラのうつりかわり”東石川(市報かつた昭和53年6月10日号掲載)
  9. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 37, 220.
  10. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 221, 231.
  11. ^ 勝田市史 中世編・近世編 1978, p. 221–222.

外部リンク

[編集]