東西学生蹴球対抗王座決定戦
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東西学生蹴球対抗王座決定戦 | |
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開始年 | 1929年 |
終了年 | 1965年 |
参加チーム数 | 2 |
最多優勝 | 早稲田大学(13回) |
東西学生蹴球対抗王座決定戦(とうざいがくせいしゅうきゅうたいこうおうざけっていせん)は、1929年から1965年まで日本で行われていた大学サッカー大会である。関東大学リーグと関西学生リーグの優勝チームが対戦した。第二次世界大戦中の一時期を除き、毎年開催された。東西学生リーグ代表対抗試合、東西大学リーグ1位対抗とも呼称された。
この大会が始まった時期の大学のサッカー部は日本のサッカー界をリードする存在であり、その東西両リーグのチャンピオン同士が対戦する本大会を全日本選手権(天皇杯)よりも重要な大会であると考える向きもあった。[1][2]
1952年には他地方の大学にも門戸を開いた全国大学サッカー大会(現・全日本大学サッカー選手権大会)が始まったが、同大会には東西リーグ至上主義者からの反対意見が強く、特に関西サッカー協会はその中心であり、初期は関西勢はまったく参加しなかった。
東西学生王座決定戦は1965年の第37回で終了した。1966年からは全日本大学サッカー選手権大会がオープン制から地域代表制へ大きな制度変更がなされ、名実ともに大学日本一を決定する大会となった。
歴代大会結果
[編集]年(回) | 優勝チーム | スコア | 準優勝チーム |
---|---|---|---|
1929 (1) | 東大 | 3-2 | 関学 |
1930 (2) | 東大 | 2-1 | 京大 |
1931 (3) | 東大 | 2-2 | 関学 |
1932 (4) | 慶大 | 2-1 | 京大 |
1933 (5) | 早大 | 5-2 | 京大 |
1934 (6) | 早大 | 6-0 | 京大 |
1935 (7) | 早大 | 12-2 | 関学 |
1936 (8) | 早大 | 3-2 | 神戸商大 |
1937 (9) | 慶大 | 3-0 | 京大 |
1938 (10) | 関学 | 3-2 | 慶大 |
1939 (11) | 慶大 | 4-2 | 関学 |
1940 (12) | 慶大 | 3-0 | 関学 |
1941 (13) | 中止 | ||
1942 (14) | 東大 | 8-1 | 関学 |
1943 (15) | 中止 | ||
1944 (16) | |||
1945 (17) | |||
1946 (18) | 早大 | 2-0 | 神戸経大 |
1947 (19) | 早大 | 4-1 | 関学 |
1948 (20) | 関学 | 2-0 | 東大 |
1949 (21) | 早大 | 4-2 | 関大 |
1950 (22) | 早大 | 1-1 | 関学 |
1951 (23) | 関学 | 2-1 | 早大 |
1952 (24) | 慶大 | 3-2 | 関学 |
1953 (25) | 関大 | 3-0 | 教大 |
1954 (26) | 関学 | 1-1 | 立大 |
1955 (27) | 関大 | 3-1 | 早大 |
1956 (28) | 早大 | 4-1 | 大経大 |
1957 (29) | 早大 | 2-0 | 関学 |
1958 (30) | 早大 | 4-2 | 関学 |
1959 (31) | 立大 | 2-0 | 関学 |
1960 (32) | 関学 | 2-1 | 早大 |
1961 (33) | 関学 | 1-0 | 中大 |
1962 (34) | 中大 | 2-0 | 関学 |
1963 (35) | 早大 | 2-0 | 関学 |
1964 (36) | 明大 | 2-1 | 関大 |
1965 (37) | 早大 | 2-0 | 関学 |
大学別優勝回数
[編集]地域別優勝回数
[編集]- 関東:24回
- 関西:9回
参考文献
[編集]- 「大学サッカー栄光から苦難への移り変わり」『激動の昭和スポーツ史 (9) 「サッカー」』 ベースボール・マガジン社、1989年、128-140頁。
- 関西学院体育会サッカー部年表
脚注
[編集]- ^ 関西サッカーのあゆみ編集委員会編『関西サッカーのあゆみ』 関西サッカー協会、2006年、64頁。
- ^ 中倉一志. “ベルリンの奇跡 その2 関東主体を押し通した大日本蹴球協会”. サッカー オンラインマガジン 2002world.com. 2009年1月30日閲覧。