松井信勝
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 台湾 |
生年月日 | 1921年4月25日 |
没年月日 | 2002年頃 |
身長 体重 |
164 cm 64 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、三塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1946年 |
初出場 | 1946年4月27日 |
最終出場 | 1948年11月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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松井 信勝(まつい のぶかつ、1921年4月25日 - 2002年?)は、台湾出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。
来歴・人物
[編集]台湾に生まれる。嘉義中学在学中に、1937年夏の甲子園、1939年夏の甲子園に出場。当時のチームメイトに木場巌(のち金星、大映)がいた。卒業後は、早稲田大学でプレーした。
1946年にパシフィックの結成に参加。1947年11月11日の金星戦(後楽園球場)で、相手投手の重松道雄に対し、一打席最多投球数の日本記録(19球)を樹立した。結果は四球で、13球ファウルで粘った末の出塁だった[1]。この記録は、広島の矢野雅哉が2024年9月22日の中日戦(バンテリンドーム ナゴヤ)で、相手投手の涌井秀章に対し22球粘ったことで塗り替えられたが、77年間日本記録として残っていた。このように打率は低かったが、選球眼の良さ(通算成績でも四球数が三振数を上回っている)でチームに貢献した。1948年限りで引退した。晩年は、企業年金連合会の独身寮管理人をしており、2001年~2002年頃に死亡したとされる。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1946 | パシフィック 太陽 大陽 |
85 | 307 | 272 | 19 | 65 | 9 | 3 | 1 | 83 | 16 | 12 | 2 | 3 | -- | 31 | -- | 1 | 22 | -- | .239 | .319 | .305 | .624 |
1947 | 108 | 361 | 312 | 31 | 61 | 10 | 2 | 0 | 75 | 17 | 4 | 1 | 9 | -- | 39 | -- | 1 | 25 | -- | .196 | .287 | .240 | .527 | |
1948 | 36 | 73 | 66 | 1 | 7 | 0 | 1 | 0 | 9 | 4 | 2 | 1 | 2 | -- | 5 | -- | 0 | 8 | -- | .106 | .169 | .136 | .305 | |
通算:3年 | 229 | 741 | 650 | 51 | 133 | 19 | 6 | 1 | 167 | 37 | 18 | 4 | 14 | -- | 75 | -- | 2 | 55 | -- | .205 | .289 | .257 | .546 |
背番号
[編集]- 25 (1946年 - 1947年)
- 6 (1948年)
脚注
[編集]外部リンク
[編集]関連項目
[編集]- 松竹ロビンスの選手一覧
- 日本プロ野球記録の一覧 - 一打席最多投球数(19球)の所に松井の名前がある。