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木場巌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木場 巌
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 中華民国の旗 台湾
生年月日 (1923-12-10) 1923年12月10日
身長
体重
168 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手三塁手外野手
プロ入り 1948年
初出場 1948年4月4日
最終出場 1951年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

木場 巌(こば いわお、1923年12月10日 - 没年不明)は、台湾[1]出身のプロ野球選手投手内野手外野手)。

来歴・人物

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台湾に生まれる。嘉義中学在学中の1939年に、夏の甲子園に出場(初戦で、嶋清一擁する海草中に0-5で敗退)。当時のチームメイトに松井信勝(のちパシフィック、太陽、大陽)がいた。卒業後は、ノンプロ西日本鉄道野球部に所属した。1947年国民野球連盟大塚アスレチックスに秋季リーグより参加[1]。この秋季リーグで10勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。国民野球連盟の解散に伴い、1948年金星スターズに入団した[1]

国民野球連盟で活躍したこともあり、4月4日阪急戦(後楽園球場)に新人ながら開幕投手に抜擢された。その試合で完封し、プロ初勝利を挙げた[1]。その後、金星の主戦投手として活躍するが、チームの低迷もあり、勝ち星は伸び悩んだ。1949年10月2日大陽戦(衣笠球場)では、3番手として登板するも9回2死満塁の場面で、田川豊にサヨナラ押し出し死球を与えてしまい、10点差を逆転される屈辱を味わった(松竹ロビンス#キーワード参照)。1951年限りで引退[1]。シュートやドロップを武器とした。

プロ野球引退後は、社会人野球の強豪、川崎市日本コロムビアに入団。1953年から1958年まで5年連続で都市対抗野球大会に出場した(1954年は、同じ川崎市代表の川崎トキコの補強選手として出場)。1971年まで日本コロムビアに在職し、退職後は蒲田駅前でレコードショップを経営した。

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1948 金星
大映
16 8 3 1 0 1 4 -- -- .200 246 53.2 66 2 23 -- 2 14 2 1 33 29 4.83 1.66
1949 18 5 1 0 0 2 4 -- -- .333 321 66.2 81 5 49 -- 1 14 2 0 56 47 6.31 1.95
1950 17 7 0 0 0 1 3 -- -- .250 285 65.0 61 4 38 -- 2 16 3 0 36 30 4.15 1.52
1951 6 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 60 10.0 19 1 12 -- 0 1 1 0 13 11 9.90 3.10
通算:4年 57 20 4 1 0 4 11 -- -- .267 912 195.1 227 12 122 -- 5 45 8 1 138 117 5.37 1.79
  • 金星(金星スターズ)は、1949年に大映(大映スターズ)に球団名を変更

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1948 金星
大映
16 20 19 2 4 1 1 0 7 0 0 0 0 -- 1 -- 0 5 -- .211 .250 .368 .618
1949 19 31 29 6 3 1 0 0 4 0 0 0 0 -- 2 -- 0 9 -- .103 .161 .138 .299
1950 27 36 35 4 10 2 0 0 12 2 0 0 1 -- 0 -- 0 5 1 .286 .286 .343 .629
1951 22 15 14 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 1 -- 0 4 0 .000 .067 .000 .067
通算:4年 84 102 97 15 17 4 1 0 23 2 0 0 1 -- 4 -- 0 23 1 .175 .208 .237 .445

背番号

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  • 19 (1948年、1950年途 - 1951年)
  • 21 (1949年 - 1950年途)
  • 31 (1950年)

※1950年は、シーズン中に21→31→19と変更。

脚注

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、223ページ

関連項目

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外部リンク

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