松平信義 (小島藩主)
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛保2年(1742年) |
死没 | 享和元年9月17日(1801年10月24日) |
戒名 | 源隆院 |
墓所 | 東京都台東区下谷の英信寺 |
官位 | 従五位下丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 駿河小島藩主 |
氏族 | 堀氏(直寄流)→滝脇松平家 |
父母 |
父:堀直堯、母:山田氏 養父:松平昌信 |
兄弟 | 堀直泰、信義、浅野長致、堀直行、本多成孝、堀直教、堀直堅正室 |
妻 | 正室:松平昌信の娘 |
子 | 信圭、大久保信遠、坪内定辟、高木守影室 |
松平 信義(まつだいら のぶのり)は、江戸時代中期の大名。駿河国小島藩の第5代藩主。滝脇松平家12代。官位は従五位下・丹波守。
生涯
[編集]越後国村松藩主・堀直尭の次男として誕生。母は山田氏。先代藩主・松平昌信の娘と結婚して婿養子となる。明和8年(1771年)6月27日に昌信が没したため、同年8月29日に跡を継いだ。
治世中に用人や年寄本役として仕えていた倉橋格(寿平)は、恋川春町の名で黄表紙を執筆していたが、その作品の一つに寛政の改革を批判するものがあったため、寛政元年(1789年)に倉橋が松平定信に呼び出され、出頭しないまま辞職するという事件が起こる。
寛政8年(1796年)普請奉行が小島藩の宮ケ崎役所の大畑雄作と共に巴川の検分の際、麻畑沼の新田開発賛成派が開発の是非を願い出た。検分の結果、不許可となり90年あまり続いた新川事件は幕を下ろした[1]。
寛政12年(1800年)に隠居し、家督を長男・信圭に譲って隠居し、享和元年(1801年)に死去した。法号は源隆院。墓所は東京都台東区下谷の英信寺。
系譜
[編集]父母
正室
- 松平昌信の娘
子女
脚注
[編集]- ^ 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(P62)
参考文献
[編集]- 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典4』(新人物往来社、1988年)