松平定功
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保18年7月6日(1733年8月15日) |
死没 | 明和2年2月11日(1765年3月31日) |
改名 | 弁之丞(幼名)、定功 |
戒名 | 光輝院殿前隠州最誉慈尊一円大居士 |
墓所 | 東京都港区三田の済海寺 |
官位 | 従五位下・隠岐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 伊予松山藩主 |
氏族 | 久松松平家定勝流 |
父母 |
父:松平定英、母:多世(赤松氏) 養父:松平定喬、養母:佐竹義峯の娘・蓮寿院殿 |
兄弟 | 定喬、定功 |
妻 | 浅野宗恒の娘 |
子 | 養子:定静 |
松平 定功(まつだいら さだかつ/さだなり)は、江戸時代中期の大名。伊予国松山藩の第7代藩主。定勝系久松松平家宗家8代。官位は従五位下・隠岐守。
生涯
[編集]第5代藩主・松平定英の次男として誕生した。宝暦13年(1763年)、兄・定喬の養嗣子となり、遺領松山15万石を継ぐ。
翌年、従五位下・隠岐守に任ぜられる。明和2年(1765年)2月10日、発病。即日、従兄で松山新田藩主の定静を養嗣子とする。翌日危篤に陥り、江戸藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年33。
松山入りはわずか2回であった。遺骸は江戸三田済海寺に葬られ、遺髪が松山古町大林寺へ送られて法要が営まれた。