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松平定静

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 定静
時代 江戸時代中期
生誕 享保14年閏9月23日1729年11月13日
死没 安永8年7月14日1779年8月25日
改名 源之介(幼名)、定静
戒名 岱嶽院殿従四位拾遺補闕故隠州徇誉観月光円大居士
官位 従五位下備中守隠岐守従四位下侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
伊予松山新田藩主、伊予松山藩
氏族 久松松平家定勝
父母 父:松平定章、母:放光院殿
養父:松平定功
兄弟 定静定紀水野忠寛正室、溝口直寛正室
正室織田信方の娘
常君、琴君、園君、八君
養子定国
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松平 定静(まつだいら さだきよ)は、江戸時代中期の大名

伊予国松山新田藩2代藩主、後に伊予松山藩8代藩主。定勝系久松松平家宗家9代。

生涯

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享保14年(1729年)閏9月23日、松山新田藩初代藩主・松平定章の長男として誕生。母は側室の放光院殿(松本氏の娘)。幼名は源之介。

延享4年(1747年)、父・定章の卒去によって遺領松山新田藩1万石を継ぐ。同年、従五位下・備中守に叙任。

明和2年(1765年)、従弟で宗家藩主の松平定功の急病によって継嗣となり、翌日宗家を継承する。新田藩1万石は松山藩に返還されることなく幕府に返上され、松山新田藩は消滅する。

同年、隠岐守に転任。長男熊太郎を嫡男とするも、明和3年(1766年)、4歳にて夭折。この年、従四位下に昇る。

明和5年(1768年)、幕命により田安宗武の六男豊丸を養子として迎え、定国と名付ける。明和7年(1770年)、後桃園天皇即位のため、御使に任ぜられ、侍従に叙任する。京都では後桃園天皇に拝謁する。一方でこの年には松山城下山手代町(現在の千舟町)の足軽屋敷から出火、城下の多くが焼け出される。翌年には、養祖父・松平定喬に続いて溜之間詰に任ぜられる。これらにより松山藩の財政は逼迫、定静はたびたび藩士の俸禄を削減し、倹約を求めている。この一環として享保の大飢饉に斃れた筒井村(現在の松前町)の作兵衛を「義農」として讃え、作兵衛のために碑を建てている。

安永7年(1778年)に儒学者である浅山勿斎に藩政改革を任せ、勿斎は文武の奨励、倹約の厳守、綱紀の粛正、民心の安定を図ろうとした。しかしながら安永8年(1779年)7月10日、俄かに発病し、同月14日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去した。享年51。定静の死によって松平定勝以来の男系の血筋は断絶した。勿斎は後を継いだ定国に側用人として起用され、引き続き改革を推し進めようとしたが、他の藩士たちの反対を招き、改革は挫折することになる。

遺骸が江戸三田済海寺に葬られる。遺髪は三田済海寺を発し、木曽路を経て松山大林寺へ送られ、法要が営まれた。

系譜

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  • 父:松平定章(1700-1747)
  • 母:放光院殿 - 松本氏
  • 養父:松平定功(1733-1765)
  • 正室:旭仙院 - 織田信方
  • 生母不明の子女
    • 長女:常君(1756-1802) - 松平定休正室
    • 長男:定保(1757-1762、早世)
    • 次女:琴君(1760-1807) - 松平信道正室
    • 次男:熊太郎(1763-1766、早世)
    • 三女:園君(1764-1802) - 太田資武正室
    • 四女:鐐君(1767-1768、早世)
    • 三男:伊勢松(1769-1769、早世)
    • 五女:多喜君(1773-1773、早世)
    • 六女:八君(1774-1792) - 秋元修朝正室
    • 四男:駒丸(1776-1777、早世)
    • 七女:雅君(1777-1789、早世)
  • 養子