松平定和
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化9年8月18日(1812年9月23日) |
死没 | 天保12年6月23日(1841年8月9日) |
改名 | 寧太郎[1](幼名)、定和 |
墓所 | 三重県桑名市東方の照源寺 |
官位 | 従四位下越中守、左少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶 |
藩 | 伊勢桑名藩主 |
氏族 | 久松松平家定勝流 |
父母 | 父:松平定永、母:蜂須賀治昭の娘・綱[1] |
兄弟 | 定和、板倉勝静、土岐頼之、近説、石川総禄正室ら |
妻 | 正室:孝姫[2] |
子 | 定猷、豊子 |
松平 定和(まつだいら さだかず)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩主。定綱系久松松平家11代。官位は従四位下・越中守、左少将。
生涯
[編集]文化9年(1812年)8月18日、桑名藩主・松平定永の次男(長男とも)として江戸八丁堀で誕生[1]。天保4年(1833年)に侍従、溜間詰となる[1]。
天保9年(1838年)に父の死去により家督を相続する。藩財政の再建に努めたが、在任3年足らずの天保12年(1841年)6月22日、桑名で死去した[1]。跡を長男の定猷が継いだ[2]。
系譜
[編集]父母
婚約者
- 猗姫 - 徳川斉匡の十女
正室
子女