松平康春 (旗本)
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松平 康春(まつだいら やすはる、延宝2年(1674年) - 元文元年7月2日(1736年8月8日)[1])は、江戸時代中期の旗本。福釜松平家の分家・松平左源次家の初代。通称は昌次郎、図書、求馬、左源次[1]。
松平康済の三男。母は横井時村の娘。妻は原田種尹の娘。子に松平康儔、朝比奈正多(朝比奈正幸の養子)がいる。
桜田の館で表小姓を務めた後、宝永元年(1704年)に徳川家宣が江戸城西の丸に入った際に付き従い、同年12月12日に西の丸焼火間の番士となって稟米250俵を賜る。宝永6年(1709年)10月26日に桐間番に移り、12月25日に50俵を加増されて300俵の禄となる。正徳3年(1713年)5月18日に小姓組に移り、享保元年(1716年)10月15日に膳奉行、享保4年(1719年)9月15日に納戸頭となる。享保18年(1733年)12月12日に広敷用人となり、元文元年(1736年)7月2日に63歳で死去。法名は寂明[1]。