松平忠継
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 承応元年(1652年) |
死没 | 正徳5年7月21日(1715年8月19日) |
改名 | 辰千代(幼名)→与一郎、忠良→忠保[1] |
官位 | 従五位下筑後守[1] |
藩 | 信濃飯山藩世嗣→遠江掛川藩→摂津尼崎藩 |
氏族 | 桜井松平家 |
父母 | 父:松平忠倶 母:松平定行養女[1] |
兄弟 | 忠継、田中主殿室 |
妻 | 本多康将の娘 |
子 |
忠敏、忠喬、永井直圓正室、 菅沼定易正室 |
松平 忠継(まつだいら ただつぐ)は、江戸時代前期の信濃国飯山藩の世嗣。官位は従五位下・筑後守。
略歴
[編集]承応元年(1652年)[1]、松平忠倶の長男として誕生[1]。
寛文元年(1661年)8月26日、10歳の時に飯山藩嫡子として4代将軍・徳川家綱に御目見した[2][3]。寛文5年(1665年)に従五位下筑後守に叙任する[2]。しかし元禄7年(1694年)12月28日、病を理由として廃嫡され、飯山で隠棲した[2]。
代わって忠継の長男・忠敏が飯山藩の世嗣となったが、元禄8年(1895年)に早世[2]。忠継の二男・忠喬が元禄9年(1896年)に飯山藩を継ぐこととなった[2]。忠喬は宝永3年(1706年)に掛川藩、宝永8年(1711年)に尼崎藩に転封された。
正徳5年(1715年)7月21日、尼崎で死去[2]。64歳[2]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第五
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/24
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)