松平忠誠 (武蔵国忍藩主)
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保11年1月5日(1840年2月7日) |
死没 | 明治2年6月5日(1869年7月13日) |
改名 | 八五郎(幼名)、忠誠 |
戒名 | 霊源院殿潤渓了沢大居士 |
墓所 | 埼玉県行田市埼玉の天祥寺 |
官位 | 従四位下・下総守、侍従、従四位上左少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川慶喜→明治天皇 |
藩 | 武蔵忍藩主 |
氏族 | 大久保氏→奥平松平家 |
父母 |
大久保忠声 松平忠国 |
妻 | 太田資始の娘 |
子 | 忠敬(養嗣子) |
松平 忠誠(まつだいら ただざね)は、江戸時代後期の大名。武蔵国忍藩4代藩主。官位は従四位上・左近衛少将。奥平松平家12代。
生涯
[編集]大久保忠声(下野国烏山藩主・大久保忠保の弟)の長男として誕生した。忍藩の後継として入嗣していた忠毅の死により、新たに養子となった。
文久3年(1863年)4月1日、養父・忠国の隠居により家督を譲られる。8月26日、従四位下・侍従・下総守に叙任する。同日、京都警備のために上洛を命じられ、9月22日に孝明天皇に拝謁する。元治元年(1864年)3月12日には幕府から帰国の許可を得て、4月18日には従四位上・左少将に昇進する。8月21日、長州征討に際して江戸警備を命じられる。翌慶応元年(1865年)閏5月2日、長州征討の費用として5千両を献上する。
慶応2年(1866年)5月25日、京都警備を再び命じられ、7月4日に上洛する。10月22日、帰国の許可を得る。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの敗北による徳川慶喜の大坂退去に伴い、忠誠は紀伊から船で退却した。その後、藩内が新政府軍に抗戦するか恭順するかで二分したとき、忠誠は藩論を一つにまとめられなかったが、隠居の忠国の登場によって藩論は恭順でまとまり、2月に忠誠は新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月5日、忠国の後を追うように30歳で没した。
系譜
[編集]父母
養子