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松平忠輝 (旗本)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平忠輝
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文10年(1670年
死没 享保3年12月24日1719年2月12日
別名 通称:左内、造酒丞
墓所 深川霊厳寺
幕府 江戸幕府 桐間番、御次番、書院番
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
氏族 桜井松平家庶流
父母 父:松平忠治
兄弟 新八郎、主馬、忠郷忠輝
岡林直之
佐藤氏
忠恒
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松平 忠輝(まつだいら ただてる)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。通称は左内(さない)、造酒丞(みきのじょう)。

略歴

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旗本松平(櫻井)忠治の五男として誕生。この旗本家は桜井松平家松平忠頼遠江国浜松藩主・5万石)の次男忠直が分家して成立した旗本家から、さらにその次男・忠治が分家して興した旗本家である。

母は不詳。兄に松平忠郷岡林直之がいる[1]

貞享3年(1686年)閏3月14日に始めて5代将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄3年(1690年)12月12日、父・忠治の家督1,000石300俵のうち、1,000石は兄・忠郷が継いだが、300俵は忠輝に与えられ、分家の旗本家を興した。元禄4年(1691年)3月29日に桐間番となり、11月7日には御次番に転じたが、12月2日に職を免じられた。元禄5年(1692年)3月18日に書院番となり、元禄9年(1696年)12月22日には将軍より精勤ぶりを賞され、黄金2枚を与えられた。

元禄15年(1702年)12月14日、元赤穂藩大石良雄らによる吉良家討ち入りが起きると、義盟に加わらなかった赤穂藩士だった直之に対し、族長の忠郷は激怒。12月28日に切腹を命じ、介錯は忠輝が務めた。

宝永元年(1704年)11月14日に幕府の役職を辞し、享保3年(1718年)12月24日に死去した。享年49。深川霊厳寺に葬られた。妻は佐藤氏の娘。その間に生まれた子忠恒が家督を継いだ。

脚注

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  1. ^ 兄弟の長幼の順については諸説ある。享年から逆算すると次兄直之より忠輝のほうが年上になる。また長兄の忠郷よりも庶子の忠輝のほうが将軍への拝謁が早い