松平通温
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄9年5月28日(1696年6月27日) |
死没 | 享保15年5月19日(1730年7月3日) |
改名 | 喜之進(幼名)→通温 |
戒名 | 顕照院 |
官位 | 従四位下侍従、安房守、左近衛権少将 |
主君 | 徳川吉通→五郎太→継友 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 尾張徳川家 |
父母 | 父:徳川綱誠、母:里見氏娘・唐橋 |
兄弟 |
徳川吉通、徳川継友、義孝、通温、 徳川宗春、光現院ら22男18女 養兄弟:馨香院 |
松平 通温(まつだいら みちまさ)は、江戸時代中期の尾張藩主一門。官位は従四位下・侍従、安房守、左近衛権少将。
生涯
[編集]尾張徳川家3代当主・尾張藩主徳川綱誠の十九男として誕生。母は側室の唐橋(里見氏・卓然院)。幼名は喜之進。
宝永4年(1707年)に元服し、当時藩主であった兄・吉通の偏諱を受けて通温と名乗る。正徳2年(1712年)、江戸に上り、従四位下・侍従・安房守に任官する。同4年(1714年)には左近衛権少将に進む。しかし同6年(1716年)に7代将軍・徳川家継が没し、兄で藩主の継友が8代将軍の座を紀州藩主の吉宗と争って敗れると、尾張家の一員として憤激収まらず、「頗る狂躁の行いあり」[1]と記録されるような過激な言動を強めていった。享保3年(1718年)には継友の手によって尾張国内に幽閉されるに至り、以降は徐々に酒に溺れて自暴自棄となる。この結果健康を害し、享保15年(1730年)に35歳で死去した。法号は顕照院。
脚注
[編集]- ^ 『尾君御系譜』、『尾藩外史略稿』など
参考文献
[編集]- 加来耕三『徳川宗春 尾張宰相の深謀』毎日新聞社