松平重良
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安2年(1649年) |
死没 | 元禄11年12月26日(1699年1月26日) |
改名 | 重良→円忠(法名) |
別名 | 八十郎、孫大夫 |
墓所 | 西迎寺 |
官位 | 従五位下、美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱、綱吉 |
氏族 | 深溝松平家 |
父母 | 父:松平重次 母:揖斐政景養女 |
兄弟 | 内藤正吉室、小出尹重室、戸田正吉室、重良 |
妻 | 大島義近の娘 |
子 | 養子:重矩、小笠原常春室 |
松平 重良(まつだいら しげよし、慶安2年(1649年)- 元禄11年(1699年))は、江戸時代前期の旗本
略歴
[編集]万治3年(1660年)2月15日、4代将軍・徳川家綱に拝謁。寛文9年(1669年)7月19日に家督を継ぎ、旗本寄合席となる。
寛文11年(1671年)書院番に列する。延宝6年(1678年)4月22日、大久保忠朝が佐倉藩に転封の際、保田宗卿とともに佐倉に赴き、忠朝の家臣に城を渡す。
天和元年2月29日(1681年4月17日)本所奉行に転任、4月14日目付に転任、12月27日布衣の着用を許される。翌年4月21日、上野国山田郡、下野国梁田郡両郡において500石を加増され、3000石の知行となる。天和3年3月23日(1683年4月19日)徳川家光の三十三回忌を行う際、命を受けて日光に赴く。貞享元年1月11日(1684年2月26日)一時的に普請奉行を兼任する。
元禄元年7月27日(1688年8月22日)勘定奉行に転任、12月25日、従五位下美濃守に叙される。
元禄11年(1698年)6月武蔵国の所領を相模国高座郡に移す。同年12月26日(1699年1月26日)死去。享年50。
四谷の西迎寺に葬られた。養子の重矩(戸田正吉の次男、重良の甥)が家督を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 大島義近の娘
養子
参考文献
[編集]- 『寛政重脩諸家譜』第1輯,國民圖書,1922. 国立国会図書館デジタルコレクション 94コマ目 https://dl.ndl.go.jp/pid/1082717/1/94 (参照 2024-02-26)