梥本一洋
梥本一洋 | |
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1939年頃 | |
生誕 |
謹之助 1893年11月29日 京都市 |
死没 |
1952年3月9日(58歳没) 京都市上京区 |
墓地 | 京都市下京区寶蓮寺 |
国籍 | 日本 |
教育 | 山元春挙、川村曼舟 |
出身校 | 京都市立絵画専門学校 |
著名な実績 | 日本画 |
運動・動向 | 早苗会、耕人社 |
梥本 一洋(まつもと いちよう、1893年(明治26年)11月29日 - 1952年(昭和27年)3月9日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。
来歴
[編集]京都中京区油小路四条上ルで、染色図案を営む家の4人兄弟のうち長男として生まれる。本名は謹之助。弟も日本画家の梥本武雄。家は祖父の代から日本画家を出すことを志しており、父吉次郎も菊池芳文に入門し芳樹と号した。しかし、途中で諦め息子たちを日本画家になるよう教育した。1899年(明治32年)本能小学校入学、1905年高等小学校に進む。1910年(明治43年)京都市立美術工芸学校に進学。卒業した後、1912年(明治45年)京都市立絵画専門学校に進み、1915年(大正4年)に卒業する。卒業後山元春挙の画塾早苗会に入門、一洋の号を名乗る。春挙死後は川村曼舟に師事、同会の重鎮となり歴史画を得意とした。
1915年(大正4年)の第9回文展で「壬生狂言の楽屋」初入選、1919年(大正8年)の第1回帝展で「秋の夜長物語」が入選を果たすと、以降、帝展において常連となった。1927年(昭和2年)の第8回帝展で「蝉丸」、1928年(昭和3年)の第9回帝展において「餞春」で連続で特選を獲得している。これ以降の帝展・新文展では無鑑査となり、しばしば審査員を務めた。一方で、1924年(大正13年)京都府立美術工芸学校教授に就任、翌年京都市立絵画専門学校助教授となり、1936年(昭和11年)から同校教授として1949年(昭和24年)まで後進の指導にあたっている。1943年(昭和18年)には早苗会を解散、新たに耕人社を結成する。第二次世界大戦後は日展において活躍、1949年(昭和24年)に依嘱となり、1950年(昭和25年)から日展運営参事となった。しかし翌年、肺癌により上京区の自宅で死去。享年58。法名は寂常院釈一洋、墓所は寶蓮寺。
古典を題材とした物語絵や歴史風俗画を得意とし、新興大和絵風の作品が多い。
作品
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款 | 出品展 | 備考 |
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今年竹 | 絹本着色 | 四曲一隻 | 京都市立芸術大学資料館 | 1915年(大正4年) | 京都市立絵画専門学校卒業制作 | |||
壬生狂言の楽屋 | 絹本着色 | 二曲一双 | 京都府立総合資料館(京都府京都文化博物館管理) | 1915年(大正4年) | 第9回文展 | |||
木花開耶姫 | 絹本著色 | 額1面 | 121.3x71.0 | 京都市立下鴨小学校 | 1515-16年(大正4-5年) | 款記「一洋」/朱文長方印[1] | ||
流るる悲歌 | 絹本着色 | 四曲一隻 | 三縁寺 | 1916年(大正5年) | 第8回文日本産業博覧会 | |||
送り火 | 絹本着色 | 二曲一双 | 161.5x236.0 | 京都市美術館 | 1916年(大正5年) | 第10回文展 | ||
秋の夜長物語 | 絹本着色 | 双幅 | 個人 | 1919年(大正8年) | 第1回帝展 | |||
橋を渡る女 | 絹本着色 | 二曲一双 | 各156.2x179.3 | ホノルル美術館 | 1915年から1920年頃 | 款記「一洋」 | 挑発的画面設定に北野恒富の影響が見られる[2]。 | |
餞春 | 絹本着色 | 二曲一隻 | 188.0x162.0 | 京都市美術館 | 1928年(昭和3年) | 第9回帝展特選 | ||
酒天童子 | 絹本着色 | 額装1面 | 京都府立医科大学 | 1929年(昭和4年) | 第10回帝展 | |||
中江藤樹伝記絵 | 絹本着色 | 画帖1冊13図 | 藤樹神社 | 1932年(昭和7年) | ||||
紫式部 | 絹本着色 | 1幅 | 128.8x42.5 | 石山寺 | 昭和初め頃 | 款記「一洋」/「壹洋画印」白文長方印[1] | ||
鵺 | 絹本着色 | 額装1面 | 174.0x255.0 | 京都市美術館 | 1936年(昭和11年)[1] | |||
潮騒 | 絹本着色 | 1幅 | 141.9x71.1 | グリフィス&パトリシア・ウェイコレクション(シアトル美術館寄託) | 1942年(昭和17年) | 款記「一洋」/「壹洋画印」白文長方印 | 現代美術名作展[3] | |
出潮 | 絹本着色 | 二曲一隻 | 175.0x228.8 | 大阪市立美術館 | 1943年(昭和18年) | 款記「一洋」 | 関西邦画展[4] | |
不動明王図 | 絹本着色 | 1幅 | 136.5x70.6 | 三の丸尚蔵館 | 1939-40年(昭和14-15年〉頃 | 一洋自身が昭和天皇へ献上[5] | ||
夕和 | 紙本着色 | 額装1面 | 個人 | 1951年(昭和26年) | 第7回日展 | 絶筆 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 展覧会図録
- 京都府京都文化博物館 学芸第一課編集 『平成十三年 京都府京都文化博物館特別展 京都画壇・王朝文化の美を描く 梥本一洋展』 京都府京都文化博物館、2001年10月1日
- 国際アート編 『大正シック展 -ホノルル美術館所蔵品より-』 国際アート、2007年
- 田島達也監修 『京都市立芸術大学創立130周年記念展 京都日本画の誕生 ─巨匠たちの挑戦─』 京都市立芸術大学 毎日新聞社、2010年
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、梥本一洋に関するカテゴリがあります。