松本栄禄
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松本 栄禄(まつもと えいろく、1819年5月18日(文政2年4月25日) - 1886年(明治19年)[1])は、日本の政治家(会見郡長、県会議員)、郡役人(浜の目最後の大庄屋)。1872年(明治5年)7月、寛敬と改名する[1]。
松江銀行(現山陰合同銀行)初代頭取、松江商工会議所初代会頭松本歓次郎の実兄[1][2]。
経歴
[編集]伯耆国渡村(現鳥取県境港市渡町)に生まれる[2]。松本民三郎(元松本)の長子[2]。
1871年(明治4年)、浜の目支配(大庄屋)[注 1]を拝命[1]。1872年(明治5年)2月、会見郡長を拝命[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 士分の在方役人に対して郡村行政の実務を担当したのが大庄屋以下の農村自治役人であり、在役人と呼ばれた。在役人はまた郡政を担当する郡役人と、村政を担当する村役人に区分される。郡村行政の最高責任者が大庄屋で、藩初期の会見郡には4名が配置され、会見郡を4構に区分して各々の行政を分担した。宗旨庄屋は寛文10年(1633年)ころから各郡1、2名ずつ新設された。寛文10年(1633年)の『大庄屋給帳』によると、会見郡には4名の大庄屋が配置されており、その内の一人車尾村次郎左衛門(深田氏)が浜目地区を担当したものと推定される。以後元禄初年までの浜目地区担当の大庄屋としては、小篠津村の角次郎左衛門、角半左衛門、角三郎兵衛、車尾村深田三郎右衛門が続き宗旨庄屋には延宝7年(1679年)以後元禄初年まで角与兵衛があり、その間与兵衛は組頭庄屋をも兼帯していた。郡役人を歴任した小篠津村角氏には現在の小篠津村「本角家」先祖と通称「麦垣角」の2系統があったといわれている。当時の小篠津村は、南弓浜開発の中心基地となった村であり、角家は新田開発の先導役として弓浜半島の豪農に成長したものと思われる[3]。「紀氏譜記」には江戸期の 小篠津村の旧家角与兵衛も紀氏一門の末葉につながる由緒を伝えている[4]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 深田豊市編『島根鳥取名士列伝 上』博進館、1903 - 1906年。
- 『境港市史 上』境港市、1986年。