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松浦信正 (市左衛門)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松浦 信正
時代 江戸時代前期
生誕 寛永14年(1637年
死没 正徳元年11月28日1712年1月6日
改名 松浦十左衛門、市左衛門、瑞山
戒名 道栄
墓所 麻布光林寺
幕府 江戸幕府 書院番士、徒頭目付
主君 徳川家綱
氏族 平戸松浦氏
父母 父:松浦信貞、母:大村式部娘
養父:松浦信生
兄弟 松浦信方、信吉、信勝、赤井忠広妻
松浦八郎左衛門娘
松浦信英、信福、信正星合顕行妻、青山幸増妻、北条氏如妻(養女)
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松浦 信正(まつら のぶまさ)は江戸時代前期の旗本書院番士、頭、目付を歴任した。

経歴

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勘定頭松浦信貞の次男として生まれ、小普請松浦信生の養子となった[1]寛文10年(1670年)10月14日家督を継ぎ、11月19日徳川家綱御目見した[1]。寛文11年(1671年)9月13日書院番士、天和2年(1682年)5月25日[1]。12月18日実父信貞の葛飾郡知行地のうち700石を分知された[1]

元禄5年(1692年)4月14日目付となり、元禄6年(1693年)7月28日改易され桑名藩預りとなっていた喜多見重政が死去すると、調査のため伊勢国桑名に赴いた[1]

元禄9年(1696年)6月27日寄合に列した[1]。元禄10年(1697年)7月26日埼玉郡内300石を与えられ、後上総国望陀郡内に移された[1]。元禄11年(1698年)12月5日致仕し、瑞山と号した[1]正徳元年(1711年)11月28日75歳で死去し、麻布光林寺に葬られた[1]。法名は道栄[1]

親族

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  • 実父:松浦猪右衛門信貞 - 勘定頭[2]
  • 実母:大村式部娘[1]
    • 兄:松浦覚左衛門信方 - 小姓組[2]
    • 長弟:松浦勘助信吉[2]
    • 次弟:松浦八兵衛信勝[2]
    • 妹:赤井五郎作忠広妻[2]
  • 養父:松浦左内信生[1]
  • 妻:松浦八郎左衛門娘[1]
    • 長男:松浦酒之丞信英[1]
    • 次男:松浦忠右衛門信福 - 松浦勘助信吉養子[1]
    • 三男:松浦河内守信正 - 松浦八左衛門信守養子[1]
    • 長女:星合摂津守顕行[1]
    • 次女:青山市左衛門幸増妻[1]
    • 養女:松浦覚左衛門信方娘、北条新左衛門氏如妻[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『寛政重修諸家譜』, pp. 483–484.
  2. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』, p. 485.

参考文献

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