星合顕行
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星合 顕行(ほしあい あきゆき、承応3年(1654年) - 享保20年6月4日(1735年7月23日))は、江戸時代の旗本。北畠家の庶家である星合家の出身である。通称は庄蔵、七兵衛、伊左衛門[1]。官位は従五位下、摂津守[1]。法名は雄盛[1]。星合顕恒の次男、母は井戸重弘の娘。星合基顕の養子となる[1]。妻は松浦信正の娘、後妻は大岡清重の娘[1]。子に具郡、親輝、幸茂、道治、定親、助能、ほか女子4人[1]。
生涯
[編集]寛文5年(1665年)に初めて徳川家綱に御目見する[1]。延宝2年(1674年)に家督を相続し、小普請に就任[1]。延宝5年(1677年)には大番に列し、貞享元年(1684年)には小普請奉行となり、貞享2年(1685年)には隅田川の普請に功があって黄金を賜った[1]。同年には熱田神宮の社殿造営に参加、日光東照宮の修理も担当した[1]。
元禄2年(1689年)に、将軍の身の回りの世話を務める小納戸へ昇進、後に300俵を賜って職務を全うした[1]。元禄8年(1695年)、再び小納戸へ復帰、武蔵国久良岐郡と都筑郡合計800石へ領地替えとなった[1]。宝永6年(1709年)、徳川綱吉が死去し、旗本寄合席に列す[1]。東叡山において供養塔の普請を承るに際し、従五位下摂津守に就任する。同年、相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡に300石を加増され、合計で1100石を知行する。
正徳3年の正月、駿府城の城壁修復を担い、褒美に時服、羽織、黄金を賜った[1]。享保2年(1717年)、小普請奉行となる[1]。享保11年(1726年)8月、前述の修復を担当した駿府城三の丸北外堀の塀が突然倒壊した[1]。これを工事の手抜きだと咎められ、幽閉されたが、同年12月には許されている[1]。享保15年(1730年)、槍奉行に就任し、その後の享保20年(1735年)に死去、享年82[1]。墓地は先祖星合具泰と同じ大圓寺[1]。
参考
[編集]- 「寛政重脩諸家譜. 第3輯」(1923年)