松田伊三雄
松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 1972年6月23日)は、日本の実業家。元三越社長。
来歴・人物
[編集]香川県三野郡詫間村(現 三豊市詫間町)出身。旧制香川県立三豊中学校、慶應義塾大学部理財科(現 慶應義塾大学経済学部)卒業。
両親と兄弟五人が早死にし、すぐ上の姉とその夫を後見人として、三豊中学、慶應義塾大学部で学ぶ[1]。三豊中学在学中は、自宅から三里程の距離があったため、寄宿舎に入り通った[2]。慶應義塾大学部では、マンドリンクラブに所属した[3]。
1919年(大正8年)慶應義塾大学部卒業後、三越本店に入社。入社後の苦労は相当なものだった。和服に前掛け姿。初めは通信販売の仕事に携わったが、残業に次ぐ残業で連日帰宅は夜11時をまわっていた。「古い番頭からは、“学校出だ”としごかれ、慶大から入社した13人が、半年も経たぬ内に3人になってしまった」[4]。そして1923年(大正12年)の関東大震災。この大惨事で、三越は日本橋本店などを焼失し機能が完全にまひした。「三越はもうダメだ」と、大阪の百貨店への就職を頼み込んだが、逆にたしなめられる。一念発起してがむしゃらに働き、1930年(昭和5年)5月、主任から京城支店次長へスピード出世する。そして足かけ9年間で、京城支店を売上高第2位の大阪支店に匹敵する優秀店に育て上げた[4]。
そのキャリアが買われ、1938年(昭和13年)大阪支店次長に就任。同支店次長時に、部下が客を万引と思い違いをし店長名の謝罪文を要求された。客は理髪店主で、20日間1日も休まず理髪店に通い、その誠意に店主は心動かされ危機を見事に乗り切った[5]。
1940年(昭和15年)仙台支店長に昇進。1942年(昭和17年)再び古巣の京城支店長として戻り、本店に次ぐ第2位の売上規模に育て上げた[6]。しかし、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の報を聞いた後、支店閉鎖の準備を開始。店員とその家族三百数人の生命を預かり、体を張って全員を無事帰国させた逸話が残る[7]。
1946年(昭和21年)4月、京城支店での業績や敗戦後の危機管理の見事さを買われ、取締役本店長に栄転。1949年(昭和24年)9月、常務に昇任[8]。岩瀬英一郎社長の補佐役として戦後の三越再建に尽力した。また、酒を飲まなかった岩瀬に替わって連日のように宴席を受け持った[4]。
1963年(昭和38年)社長就任後は、増改築・多店化推進などとともに、伝統を鼻にかけた社風を一掃して大衆化へのイメージチェンジに成功し、三越近代化の功労者といわれる。1968年(昭和43年)銀座店新築開店、1971年(昭和46年)初めて小売業で売上高が1,000億円を突破する。
1972年(昭和47年)、社長の座を岡田茂に譲り、会長に退いた。また、慶應連合三田会2代、4代会長を務めた[9]。
名言
[編集]- のれんは磨いて初めて値打ちが出る。
先人たちは、過去を踏まえながらも、絶えず時代を先取りする先見の明を持っていた。
栄典
[編集]- 1964年 - 藍綬褒章
- 1967年 - 勲三等瑞宝章
- レジョン・ド・ヌール勲章シュヴァリエ(フランス)
脚注
[編集]- ^ 『郷土歴史人物事典 香川』(第一法規出版)(1978年) 174頁
- ^ 『中井虎男先生 志のぶ草』(香川県立観音寺第一高等学校同窓会)(1970年) 64頁
- ^ 『1970年(昭和45年)11月「第105回定期演奏会」プログラム冊子掲載』 2013年7月12日閲覧
- ^ a b c 『四国新聞 郷土人脈10』(四国新聞社)(1969年3月15日)
- ^ 『道をひらく名言・名句成功の智恵』(PHP研究所)(2001年)
- ^ 『讃岐公論 昭和44年5月号』(讃岐公論社)(1969年) 178頁
- ^ 『香川県人物・人名事典』(四国新聞社)(1985年) 77頁
- ^ 『詫間町誌』(詫間町)(1971年) 845頁
- ^ 『サンデー毎日 2017年1月29日号』 36頁
参考文献
[編集]- 『香川県人物・人材情報リスト 2011』(日外アソシエーツ)(2011年)