柳原博光
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柳原博光 | |
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生誕 |
1889年3月19日 日本・東京府 |
死没 |
1966年12月31日(77歳没) 日本、東京都 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1911年 - 1944年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 帝国石油副総裁 |
柳原 博光(やなぎわら ひろみつ、1889年(明治22年)3月19日 - 1966年(昭和41年)12月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。伯爵。
生涯
[編集]大原重朝伯爵の三男として東京府(現在の東京都)に生まれる。初名は大原 義質。柳原義光伯爵の養子となる。学習院を経て、1911年(明治44年)7月、海軍機関学校(20期)を優等で卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1917年(大正6年)12月、海軍大学校機関学生となり、1919年(大正8年)12月に卒業した。
巡洋戦艦「伊吹」分隊長、機関学校教官を経て、1922年(大正11年)5月から1924年(大正13年)7月までイギリスに駐在した。帰国後は連合艦隊参謀、機関学校教官、海大教官、ジュネーヴ会議随員を歴任。1927年(昭和2年)12月、海軍省軍務局員となり、同局第3課長を経て、1931年(昭和6年)12月、機関大佐に昇進し燃料廠製油部長となった。その後、軍需局第2課長、アメリカ駐在・艦政本部造兵造船監督長、商工省燃料局第2部長などを歴任し、1937年(昭和12年)12月、海軍少将に進級した。
1941年(昭和16年)10月に海軍中将となり、第1燃料廠長として太平洋戦争を迎えた。その後、機関学校長を務め、1944年(昭和19年)10月、機関学校が海軍兵学校に統合され舞鶴分校となり分校長に就任。同年12月、予備役に編入された。
その後、帝国石油副総裁を務めた。1946年(昭和21年)2月、養父の死去に伴い伯爵を襲爵した。
栄典
[編集]- 1925年(大正14年)12月15日 - 正五位[1]
- 1932年(昭和7年)3月1日 - 従四位[2]
- 1937年(昭和12年)12月15日 - 正四位[3]
- 1942年(昭和17年)12月28日 - 従三位
- 1944年(昭和19年)12月16日 - 正三位
親族
[編集]- 実父:大原重朝
- 養父:柳原義光
- 実母:上野沼田藩11代藩主 土岐頼之の娘
- 養母:柳原花子 川村純義(海軍大将)の娘
- 兄:大原重明(貴族院伯爵議員)、秋田重季(貴族院子爵議員)[4]
- 長女:式子(入夫:承光(実父:松平忠寿)
- 二女:在子(夫:松平直正)、
- 三女:行子(夫:島津矩久(島津忠重三男))
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』 上巻、霞会館、1996年。
先代 柳原義光 |
柳原家第24代当主 1946年 - 1966年 |
次代 柳原承光 |
日本の爵位 | ||
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先代 柳原義光 |
伯爵 柳原家第3代 1946年 - 1947年 |
次代 (華族制度廃止) |