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松平忠寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 忠寿
(まつだいら ただひさ)
生誕 1882年明治15年)1月25日
日本の旗 日本
死没 1982年昭和57年)7月7日
日本の旗 日本
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 海軍少尉艦政本部部員 → 横須賀軍需部第一課長 → 「榛名」副長 → 海軍大佐 → 予備役
最終階級 海軍大佐
除隊後 貴族院子爵議員
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松平 忠寿(まつだいら ただひさ、1882年明治15年)1月25日[1] - 1982年昭和57年)7月7日)は、明治時代から昭和時代中期華族海軍軍人海兵31期を卒業[2]忍藩最後の藩主松平忠敬の長男[3]で、奥平松平家14代当主子爵貴族院議員[3]尚友会倶楽部理事長。

経歴

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1882(明治15)年、元忍藩知事松平忠敬と正妻・貴子(伏見宮邦家親王の十三王女)の長男として生まれる。
日露戦争に海軍少尉として出征。「八島」、「日進」、「台中丸」乗組みとして従軍した[4]艦政本部部員、横須賀軍需部第一課長、「榛名」副長などを務め[4]1928年昭和3年)海軍大佐で予備役となる[4]。父の死去に伴い、1919年大正8年)12月10日に子爵を襲爵し[5]1932年(昭和7年)7月10日、貴族院子爵議員に互選され[6]研究会に属する。1936年(昭和10年)、忍郷友会名誉会長となる。

晩年

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1946年(昭和21年)5月9日、貴族院議員を辞職する[7]太平洋戦争大東亜戦争)の戦災にあった目黒にある邸宅(300坪)を松平農園と命名して、70歳で東京農業大学聴講生になり野菜作りに精を出した。1982年昭和57年)7月7日、100歳で死去した。

家族

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出典

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  1. ^ 華族名簿. 昭和16年5月31日現在
  2. ^ 『海軍兵学校沿革』
  3. ^ a b c d 『大衆人事録 東京篇』「松平忠寿」
  4. ^ a b c 『遠い潮騒』pp.67-68
  5. ^ 官報』第2207号、大正8年12月11日。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、40頁。
  7. ^ 『官報』第5803号、昭和21年5月22日。
  8. ^ 松平忠寿『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  9. ^ 鳥取県郷土人物文献データベース (日本語) - 2016年12月5日閲覧
  10. ^ a b 『人事興信録』45版
  11. ^ 『「恋愛結婚」じかけの天皇制』天野恵一、インパクト出版会, 1993、p40

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 明治百年史叢書74巻『海軍兵学校沿革』原書房、1968年。 
  • 松野良寅『遠い潮騒 米沢海軍の系譜と追想』米沢海軍武官会、1980年。 
  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京』1937年。 
日本の爵位
先代
松平忠敬
子爵
松平家第2代
1919年 - 1947年
次代
華族制度廃止