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柳沢里顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
柳沢里顕
時代 江戸時代後期
生誕 文化6年10月28日1809年12月5日
死没 天保13年12月17日1843年1月17日
改名 包三郎(幼名)→正鳳(初名)→里顕
官位 従五位下、弾正少弼
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
越後三日市藩
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢保光、養父:柳沢里世
兄弟 保民保泰中川久貴柳生俊豊武田信之里顕柳沢光被継室、松浦皓正室、戸田氏綏正室、内藤信敦正室、外山光施
正室:柳沢里世の娘
継室:堀直庸の娘
泰孝最上義僭正室のち本多忠紀正室、小笠原忠幹継室、新見正典
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柳沢 里顕(やなぎさわ さとあき、文化6年10月28日1809年12月5日) - 天保13年12月17日1843年1月17日))は、越後三日市藩の6代藩主[1]。官位は従五位下、弾正少弼。幼名は包三郎。初名は正鳳。

経歴

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大和郡山藩柳沢保光の九男として誕生、従兄である三日市藩主柳沢里世の養子となる。文政8年(1825年)11月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。文政9年(1826年)4月8日、里世の隠居により家督を相続する。在世当時、藩財政は極度に悪化し、2000両を超える巨額の借財が累積したという。同年12月16日、従五位下・弾正少弼に叙任する。文政11年(1828年)9月2日、日光祭礼奉行を命じられる。文政12年(1829年)2月11日、大坂加番を命じられる。天保7年(1836年)4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。天保13年に死去し、跡を長男の泰孝が継いだ。

系譜

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父母
正室
子女

出典

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  1. ^ 柳沢里顕」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E9%87%8C%E9%A1%95コトバンクより2022年12月11日閲覧