柳沢里顕
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化6年10月28日(1809年12月5日) |
死没 | 天保13年12月17日(1843年1月17日) |
改名 | 包三郎(幼名)→正鳳(初名)→里顕 |
官位 | 従五位下、弾正少弼 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 越後三日市藩主 |
氏族 | 柳沢氏 |
父母 | 父:柳沢保光、養父:柳沢里世 |
兄弟 | 保民、保泰、中川久貴、柳生俊豊、武田信之、里顕、柳沢光被継室、松浦皓正室、戸田氏綏正室、内藤信敦正室、外山光施室 |
妻 |
正室:柳沢里世の娘 継室:堀直庸の娘 |
子 | 泰孝、最上義僭正室のち本多忠紀正室、小笠原忠幹継室、新見正典室 |
柳沢 里顕(やなぎさわ さとあき、文化6年10月28日(1809年12月5日) - 天保13年12月17日(1843年1月17日))は、越後三日市藩の6代藩主[1]。官位は従五位下、弾正少弼。幼名は包三郎。初名は正鳳。
経歴
[編集]大和郡山藩主柳沢保光の九男として誕生、従兄である三日市藩主柳沢里世の養子となる。文政8年(1825年)11月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。文政9年(1826年)4月8日、里世の隠居により家督を相続する。在世当時、藩財政は極度に悪化し、2000両を超える巨額の借財が累積したという。同年12月16日、従五位下・弾正少弼に叙任する。文政11年(1828年)9月2日、日光祭礼奉行を命じられる。文政12年(1829年)2月11日、大坂加番を命じられる。天保7年(1836年)4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。天保13年に死去し、跡を長男の泰孝が継いだ。